旧約聖書の五人の人物
ルカの福音書 24章13-35節
13ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。14彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。15話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。16しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。17イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をて立ち止まった。18そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」19イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。20それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。21私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、22仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、23イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。24それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。26キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」27それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
28彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。29彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。30そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。31すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」33二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、34「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。35そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。
次へ
セッション 1 :旧約聖書の五人の人物
「聖書を開く」へようこそ。この飛行の旅では、たった三つのセッションを通して、聖書の物語全体を旅をすることになります。
まずは、旧約聖書から始めます。ここでは五人の人物に出会います。次に、福音書では五つの出来事を見ます。そして、新約聖書の手紙では、五つの素晴らしい賜物(贈り物)について考えます。
たくさんの内容からなるので、早速見ていきましょう。この聖書の簡単な紹介が神とは誰か、あなたとは誰か、そしてイエスがあなたにどんな贈り物をしてくださっているのかを理解する手助けになればと願っています。
聖書の旅は、過去に大きな出来事が起こった城を見学するようなものです。奇妙に思えることがらもあるかもしれませんが、それは別の時代の出来事ですから当然です。
しかし、私はあなた方をこの聖書の世界に招き入れ、その世界を見渡してほしいと思っています。素晴らしい神と、多くの場合困惑している民と、すべての人に祝福をもたらせるという神の偉大なる約束のあるこの世界を発見してください。
さて、もしあなたが「聖書を信じているかどうか分からない」と思っているなら、私は「あなたがこのツアーに参加してくれてよかった」と思っています。神が語られたことに耳を傾け、神がなさったことに目を向けてください。そうすれば、聖書が過去の遺物であるどころか、神が今日あなたに語りかけている手段であることが分かるでしょう。
さて、新しい劇の初演を見に行った劇場にいる自分を想像してみてください。作者が舞台に上がり、観客に自己紹介をします。自分が誰なのか、なぜこの劇を書いたのか、そしてこの劇が何について書かれたものなのかを語ります。作者は自分の存在を議論することはありません。彼はただステージに上がり、自分自身と自分の作品について話し始めます。
神は創造主
聖書は、神が舞台に上がり、ご自身を紹介するところから始まります。
はじめに神が天と地を創造された…(創世記 1:1)
神がご自身について語る最初のことは、神が創造主であるということです。さて、創造主とは必ず所有者でもあります。神はすべてのものの創造主ですから、神はすべてのものを所有していることになります。この世界は神のものです。よって、あなたも神のものなのです!
神は仰せられた。
「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう…」
神は人をご自身のかたちとして創造された。
神のかたちとして人を創造し、
男と女に彼らを創造された。(創世記 1:26−27)
あなたは神によって造られ、神に似せて造られ、神のために造られたのです。これから、神を知るにつれて、自分自身を知るようになります。
このことは、私たちが旧約聖書で出会うべき五人のうちの最初の人につながっています。
- アダム
- アブラハム (2000)
- モーセ (1500)
- ダビデ (1000)
- ネヘミヤ (500)
1.アダム
神である主は、その大地のちりで人を形造り、
その鼻にいのちの息を吹き込まれた。
それで人は生きるものとなった。(創世記 2:7)
神は大地のちりで人の形を造りました。神はこの人の形にご自身の息を吹き込まれました。神がアダムにいのちのキスをすると人の形が生きるものとなりました。
このことがアダムにとって何を意味するかを考えてみてください。アダムが初めて意識をもった瞬間、彼は神の顔を見上げていたのです!アダムは、神が自分を誕生させたことを知りました。神が彼に命を与えたのです。彼は神のものでした。
神はアダムに四つの素晴らしい贈り物を与えた
家という贈り物
神である主は東の方のエデンに園を設け、
そこにご自分が形造った人を置かれた。(創世記 2:8)
神はこう言われていたのです、「ここは私があなたのために用意した場所だ。この場所で私の祝福を知って楽しんでほしい。」アダムは園の中でくつろいでいました。
家(家族・実家などの意味を含む)とは、神があなたを置いてくださった場所です。完璧な家はありませんが、神があなたのために用意してくださった場所こそ、あなたが最も栄える場所なのです。
仕事という贈り物
神である主は人を連れてきて、
エデンの園に置き、
そこを耕させ、また守らせた。 (創世記 2:15)
仕事は神からの良い贈り物であり、神はアダムの仕事に関わっておられました。アダムが動物に名前をつけられるように、動物を連れてきてくださいました(2:19)。
神が与える仕事は、神が行う仕事を反映しています。神は混沌とした状態に秩序を生み出します。美しいものを創造されます。保護し、養います。あなたが自分の仕事においてこのようなことをするとき、あなたは神がなさる仕事を反映しているのです。
結婚という贈り物
神である主は、人から取ったあばら骨を
一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。(創世記 2:22)
神はエバを造られ、アダムに引き合わせました。最初の結婚式を執り行ってくださったのは全能の神でした。神がエバの手を取り、アダムの手に握らせ、「互いに愛し合いなさい。互いに助け合いなさい。私が与えている人生を共に分かち合いなさい。」と言われました。
最初の結婚にはも、今と同じように問題がありました。しかし、アダムとエバはこの先どのような問題が生じても、自分たちが神によって結ばれたことを決して疑うことはありませんでした。そして、もしあなたが結婚しているなら、神があなたがたを結びつけてくださったことを知ることでどんな嵐も乗り越えることができるでしょう。
神ご自身との交わりという贈り物
そよ風の吹くころ、彼らは、
神である主が園を歩き回られる音を聞いた。(創世記 3:8)
神は、アダムとエバにご自身を知ってほしかったので、目に見える形で園に現れました。このように神が現れることをテオファニー(顕現)と呼んでいますが、このことからも私たちが神を知ることを神がどれほど強く願っておられるかが分かります。
聖書の物語の中心は、神がイエス・キリストとして人となられたことです。ですから旧約聖書の中で、神が目に見える形で出現していることは不思議なことではありません。それはまるで、神の子が来るのを待ちきれなかったかのようです。
神はアダムに四つの素晴らしい贈り物をされました。しかし…
アダムとエバは神に対して罪を犯した
ここで人間の問題の核心に迫りますが、それには二つの部分があります。
私たちは悪を知るようになった
神はアダムとエバにたった一つの命令を与えました:
しかし、善悪の知識の木からは、
食べてはならない。
その木から食べるとき、
あなたは必ず死ぬ。 (創世記 2:17)
この戒めは神の愛の素晴らしい表現でした。アダムとエバにはすでに善についての知識がありました。しかし、神は彼らに言われます、「あなた方は多くの善を享受しているが、もう一つの恐ろしい現実があり、私はあなた方をそれから守りたいのだ。それは悪と呼ばれるもので、絶対に経験してほしくないから、触れてはいけない!」
しかし、アダムとエバはこの悪について知りたいと思ってしまいました。そこで神がやってはいけないと言われたことを行いました。神の命令に背いたのです。
そして、その不従順な行為によって悪の知識を得ました。それ以来私たちは悪の知識と共に生きています。
私たちは楽園から追放された
神である主は、人をエデンの園から追い出し、
人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。
こうして神は人を追放し、
いのちの木への道を守るために、
ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣を
エデンの園の東に置かれた。(創世記 3:23−24)
ケルビムとは神の聖さを表す神の御使いのことです。そして、上下左右のあらゆる方向に回る炎の剣があらゆる角度から切りつけてくるので、通ることは不可能でした。炎の剣は神の裁きを表しています。
この光景にアダムとエバは恐怖を覚えたことでしょう。神の祝福を知っていた場所から追放され、戻ることができなくなったのです。
つまり人間の問題についての聖書の診断はこうです:私たちは悪についての知識を持っており、神の前から追放されています。しかし…
神は呪いと約束によって希望を与えられた
神はエバを誘惑した蛇を呪われました:
おまえは…のろわれる。 (創世記 3:14)
呪いとは、神が人や物を破滅に追いやる言葉です。ですから、神がこの呪いを発したとき、「悪は耐えられない。それは破滅される。」と言っていたのです。これは本当に良い知らせです!!
それから、神はアダムに向かって、「のろわれる」(3:17)と言われました。アダムは息をのんだことでしょう。神は蛇を呪ったので、今度はアダムをも呪おうとしているように感じました。
しかし、神はアダムに「あなたはのろわれる」と言う代わりに、「大地は、あなたのゆえにのろわれる」(3:17)と言われました。大地が何をしたというのでしょうか?
このことは聖書の神について知っておくべき最も重要なことの一つを示しています。神は常に罪に対処し、それを滅ぼされます。しかしその裁きを男と女からそらして彼らが神と和解するための余地を作ってくださいました。
アダムの罪に対処する呪いはどこかに行かなければなりません。聖書の物語の中核では、神が御子を遣わし、呪いを御子に向けてくださいます。呪いが私たちにかからないように、御子が呪いを背負ってくださったのです。
それから、神は救い主が来られることを約束してくださいました:
わたしは敵意を、おまえと女の間に、
おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
彼はおまえの頭を打ち、
おまえは彼のかかとを打つ。(創世記 3:15)
聖書の物語の残りの部分は、すべてこの「救い主」について書かれています。彼は誰なのでしょうか?いつ来られるのでしょうか?何をしてくださるのでしょうか?そして私たちはどのようにして、このお方がもたらす祝福を分かち合うことができるのでしょうか?
- アダム
- アブラハム (2000)
- モーセ (1500)
- ダビデ (1000)
- ネヘミヤ (500)
アダムとエバが園から追い出された後、人類の家族は増えていきました。家族が増えるにつれ、悪と暴力も増大していきました。
神は大洪水を起こしたり、人間の言葉を混乱させることによって人間の悪を抑制されました。しかしその後、神は人類の歴史に踏み入り、アブラハムという人物にご自身を現されました。
2. アブラハム
なぜ私たちはアブラハムに関心を持つべきなのでしょうか?
神がアブラハムに約束されたこと
神はアブラハムに驚くべき約束をされました。神は言われました、
わたしは…あなたを祝福し… 地のすべての部族は、あなたによって祝福される。(創世記 12:2、 3)
アブラハムへの約束は、私たちへの約束であることに注目してください。アブラハムによって地上のすべての部族は祝福されます。
旧約聖書がアブラハムの家系に焦点を当てているのは、残りの国々がどうでもよいからではありません。残りの国々が重要だからこそです。神の計画は、アブラハムを通して地上のすべての部族を祝福することなのです。
聖書によると、アブラハムは若い頃に「ほかの神々に仕えていた」(ヨシュア記 24:2)と記されています。アブラハムは聖書の神を知らず、神を求めず、神に従っていませんでした。しかし神が彼に現れて、「わたしは…あなたを祝福し… 地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記 12:2、3)と、言われました。
神がイニシアチブを取ったのです。あたかも「人間たちがわたしを求め、わたしを見つけるのを待っていたなら、彼らは決して来ないだろう。わたしが彼らを探し、わたしが彼らを見つけ、わたしが彼らを祝福する。」と神が言われているようです。
それが聖書の言う「恵み」です。神はアブラハムが神を探すのよりもずっと前からアブラハムを探していたのです。そして、あなたが神を探すずっと前から、神はあなたを探していたのです。
アブラハムは神の約束を信じた
アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。(創世記 15:6)
アブラハムは何を信じたのでしょうか?聖書の物語を読み進めていくと、イエスの次の言葉にたどり着きます、「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです」(ヨハネ 8:56)。
アブラハムは、イエスが生まれる二千年前に生きていました。しかし彼は自分のすべての子孫の中から、世界を祝福するという約束を成就する人を、神が与えてくださることを理解していたのです。その子孫とは、アブラハムの家系に生まれたイエスです。
アブラハムは、私たちと同じように、主イエス・キリストを信じることによって救われたのです。アブラハムはイエスの名前や十字架についても知りませんでしたが、アブラハムの信仰は、私たちの信仰がイエスが成し遂げられたことを振り返るように、後にイエスが成し遂げるであろうことを見ていたのです。
主イエス・キリストを信じることによって、私たちは神と正しい関係を持つことができるのです。イエスがこの世に来られる前からも、ずっとそうだったのです。
想像を絶する代価を払って神の約束は果たされる
これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい 。」 (創世記 22:1−2)
アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ…イサクは父アブラハムに話しかけて言った…「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」
アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」(創世記 22:6、7、8)
イサクはそのとき、青年であったはずです。ですから、祭壇の上で無力に横たわっている幼い子供を描いた絵画などを見たことがあるかもしれませんが、そのような姿からくる想像はすべて忘れてください。イサクは薪を肩に担いでいました(22:6)。イサクは働き盛りの年齢で、その気になれば年老いたアブラハムを簡単に打ち負かすことができたはずです。
しかし、イサクはそうしませんでした。彼は自分の命を喜んで献げることを望んだのです。つまり、ここにあるのは、息子を献げることを厭わない父と、自分自身を献げることを厭わない息子の姿です。彼らは、世界に祝福をもたらすために、心を一つにして行動しています。
しかし、決定的な瞬間に、神が天から呼びかけます:「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない」(22:12)。そして、神はささげ物を用意してくださいました:
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、
一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。
アブラハムは行って、その雄羊を取り、
それを自分の息子の代わりに、
全焼のささげ物として献げた。 (創世記 22:13)
雄羊はイサクの身代わりとなりました。雄羊が祭壇でイサクの身代わりになったので、イサクの命は助かりました。
さて、雄羊の命はイサクの命に比べるとはるかに価値がないことは明らかです。そのため、神は当面の間、価値の低い犠牲を受け入れ、いつかは大きな犠牲を払わなければならないとされたのです。
「神の祝福がこの世界にもたらされるためには、いったいどれほどの代価が必要なのだろうか?我が息子よりも大きな犠牲とは一体どんな犠牲だろうか?」とアブラハムは考えたに違いありません。
私たちは、この物語に二つの方法で応答することを意図されています。第一に、恐怖に震えてほしいと思います。それこそ、あなたが感じるべきことです。想像を絶する犠牲とは、いったいどのようなものなのでしょうか?
第二に、驚きをもってこの物語が指し示している現実を見つめて欲しいと思います。父親が息子を捨てる覚悟をし、息子が自分の命を捨てる覚悟をした物語は、神の祝福が全ての人にもたらされるためにはどれほどの代償が必要なのかを示しています。
- アダム
- アブラハム (2000)
- モーセ (1500)
- ダビデ (1000)
- ネヘミヤ (500)
アブラハムにはイサクが生まれ、イサクにはヤコブが生まれ、ヤコブには十二人の息子が生まれました。一族は飢饉の時代に食糧があったエジプトに移住しました。
一族は400年間、エジプトに留まりました。その間に、一族の人口は増えていきました。そして、人口が増えるにつれ、彼らは虐げられていきました。その状況の中で、旧約聖書の物語の中で私たちが出会うべき三人目の人物が登場します:モーセです。
3. モーセ
モーセについてまず知っておくべきことは次のことです:
神はモーセを通してご自分の民を救われた
主は言われました、
「わたしは彼らの痛みを確かに知っている。
私が下って来たのは…彼らを救い出し…
乳と蜜の流れる地に… 彼らを導き上るためである。」(出エジプト記 3:7−8)
神はモーセに、ご自分の民をエジプトから導き出すように命じられました(3:10)。モーセは「私の民を去らせよ」(5:1)という神の命令を携えて、ファラオに立ち向かいました。ファラオは拒否しました。しかし、一連の災いの後、ファラオはついに神の要求を受け入れました。
神の民が紅海までやってくると、窮地に追いつめられたかのように思えました:
モーセが手を海に向けて伸ばすと、
主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、
海を乾いた地とされた。水は分かれた。
イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。
水は彼らのために右も左も壁になった。 (出エジプト記 14:21−22)
神はモーセに十戒を授けた
それから神は次のすべてのことばを告げられた。
「わたしは、あなたをエジプトの地、
奴隷の家から導き出した
あなたの神、主である。
あなたには、わたし以外に、
ほかの神があってはならない。」 (出エジプト記 20:1−3)
十戒には、注目すべき二つの点があります:
十戒は神の品性を反映している
十戒は神の品性を直接反映しています。
「あなたがたはわたしの民なのだから、わたしのあり方を反映した生活をするようにとあなたがたを召す 」と、神は言われているのです。
なぜ姦淫をしてはいけないのでしょうか?神が誠実な方だからです。なぜ盗んではいけないのでしょうか?神が信頼できるお方だからです。なぜ嘘をついてはいけないのでしょうか?神が真実を語るお方だからです。
これらの戒めを通して、神は「あなたがたはわたしの民である。あなたがたを、わたしの品性を反映した人生を送るこように召す。これが敬虔な生き方である」と語っておられるのです。
神は聖霊の力によって戒めを全うするための力を授ける
わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、
わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。 (エゼキエル 36:27)
何年も前に、窃盗で刑務所に服役していた人の話を聞きました。その人は窃盗をして刑務所に入れられたのですが、法の力によって捕えられるまで、ずっとそのようにして生活していました。彼は獄中で、イエス・キリストの福音を聞き、見事に変えられました。
釈放されたときに、その男は大きな苦難に直面することになると知っていました。彼の古くからの友人のほとんどが犯罪者でした。これまでの古い生活パターンを断ち切るのは容易でないことも分かっていました。
釈放されて真っ先にこの男がしたかったことは、教会に行くことでした。そこで、自由になった最初の日曜日の朝、彼は教会の建物にそっと入り込み、後ろのほうの席に座わりました。
正面を見上げると、壁には十戒の文字が刻まれていました。彼の目はすぐに自分を非難しているような命令の言葉に引き寄せられました:「盗んではならない(You shall not steal!)」。「今、最も聞きたくない言葉だ」と彼は思いました。「私は自分の失敗を知っている。これから直面する闘いを知っている。」
彼がその言葉を何度も読み返すうちに、その言葉が今まで見たことのないような新しい意味を持つように思えました。それまで、彼はこの言葉を「盗んではならない!(You shall not steal!)」という非難めいた命令の調子で読んでいました。
しかし今、神はこの同じ言葉を、「あなたは盗むことはない(You shall not steal!) 」という、素晴らしい約束として彼に語っているように思えました。彼は新しい人となり、聖霊によって盗みという古い習慣を克服する力が与えられています。
あなたは盗むことはない。もう盗むことがない理由は、「わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする」(エゼキエル 36:27)からです。
新しい人生は、イエス・キリストを通して、その御霊の力によって可能になります。
神はモーセにいけにえを授けた
モーセが山の上で十戒を受けているのと同時に、神の民は山の下でそれらを破っていました。
主はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。
あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、
堕落してしまった。」(出エジプト記 32:7)
さらに神は言われました、
わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし…
乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。
しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない… (出エジプト記 33:2、 3)
これはかなりの提案でした!「乳と蜜の流れる地で、豊かな生活を送るがよい。御使いを送って道案内をさせよう。ただし、一つだけ問題がある。わたしはあなたがたと一緒には行かない」(出エジプト記 33:3)。
ここで、聖書の物語における驚嘆すべき瞬間が訪れます:「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ…」(出エジプト記 33:4)。神の民である彼らは、神が共にいなければ、どんなに繁栄しても、神の不在を補うことはできないと知っていたのです。
しかし、神の戒めを破った神の民のもとに、どうすれば神が戻ってきてくださるでしょうか?
神はモーセに「幕屋」と呼ばれる移動式の礼拝所を作るための詳細な指示を与えました。このテントのような構造物の中心には至聖所がありました。
契約の箱はそこに置かれていました。それは木製の箱で、蓋がされており、蓋の中央は神が「宥めの蓋(なだめのふた=慈悲の座)」と呼ぶ場所でした。神は、その場所でご自分の民に会うのだと、言われました。
その『宥めの蓋』を箱の上に載せる…
わたしはそこであなたと会見し…(出エジプト記 25:21、22)
大祭司が至聖所に入り、いけにえとして献げられた動物の血を宥めの蓋に振りかけると、神の臨在を表す雲が下りてきて、幕屋を満たしました。
神の臨在がどうすれば民のもとに戻ってくるかを、神は示してくださっていました。私たちは、罪のために神の臨在を失っていますが、いけにえを献げることによって神の臨在が戻ってくるのです。
- アダム
- アブラハム (2000)
- モーセ (1500)
- ダビデ (1000)
- ネヘミヤ (500)
モーセの死後、神はモーセの後継者であるヨシュアの指揮の下、ご自身の民を約束の地に導かれました。その後、400年に及ぶ長い混沌の時代が続きました。
神の民は、神の命令に従わないで反抗し続けました。彼らが神に背を向けると、神は彼らの敵が彼らに勝利するのを許されました。そして、民が神に立ち返り助けを求めて叫ぶと、神はさばきつかさと呼ばれる指導者を遣わして、彼らを救いました。しかし、そのさばきつかさが死ぬと、神の民は再び神に背を向けました。
神の民は、他の国々にはもっと安定した指導者がいるのを見て、王が欲しいと思いました。最初の王は、その名をサウルと言いましたが、全くの期待外れでした。しかし、彼の後継者は、ダビデという人でした。
4. ダビデ
ダビデは、イエスが誕生する約千年前に王となり、40年間統治しました(2 サムエル 5:4)。その間、神の民はこの上ない祝福を享受しました。強力な防衛力、繁栄する経済、安定した指導力など、神の民はかつてないほど恵まれていました。
ダビデとその息子ソロモンの人生において、注目すべきことが二つあります:
神はダビデに約束をされた
神の民が砂漠にいたとき、目に見える神の臨在が、契約の箱に下りてきました。しかし、サウル王の時代になると契約の箱は倉庫にしまわれ、完全に忘れ去られてしまいました。
ダビデは、この神の臨在の象徴である箱を国民生活の中心に置きたいと思い、箱をエルサレムに運びました。「人々は主の箱を運び込んで、ダビデがそのために張った天幕の真ん中の定められた場所にそれを置いた」(2 サムエル 6:17)。
ダビデは箱を納めるための神殿を建てようとしましたが、神は別の計画をお持ちでした。ダビデは神のために何か印象的なことをしたいと思っていましたが、神はダビデや私たちのために壮大なことを用意しておられたのです。
「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、
彼の王国を確立させる…
彼はわたしの名のために一つの家を建て、
わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」(2 サムエル 7:12−14)
ダビデは、この約束の重みと栄光に圧倒されました。自分の息子が神殿を建てることは容易に理解できましたが、どのような王の治世が永遠に続くことができるでしょうか?また、ダビデの息子が、どうして神の子と呼ばれることができるでしょうか?
聖書は、神の祝福がどのようにすべての人々にもたらされるかという物語であることを覚えていてください。神はすでに、アブラハムの子孫を通して神の祝福がもたらされることを約束してくださっています。そして、それから千年後。今、神はその祝福がダビデの血筋の王によってもたらされると、明らかにされたのです。
新約聖書を見ると、最初の節にこう書いてあります、
アブラハムの子、ダビデの子、
イエス・キリストの系図。(マタイ 1:1)
イエスは、アブラハムとダビデに対する神の約束を成就したお方なのです。地のあらゆる部族を祝福されるお方です。とこしえに統治される王です。ダビデの家系に生まれましたが、神が彼の父であり、彼は神の子なのです。
彼は、神の御名のために家を建てる方です。ただし、建物を建てることによってではなく、あらゆる部族、あらゆる国から、神を心から愛する民を集めることによってそうされるのです。
神の臨在が神殿に下りた
ダビデが亡くなると、その息子のソロモンがエルサレムに神殿を建てるという父の計画を実現するために動き出しました。
それは大規模な建設プロジェクトでしたが、ソロモンが特に注意を払ったのは、至聖所(神殿の中心にある小さな部屋で、神の臨在が下りてくると言われている場所)でした。
建物が完成すると、神の民が集まって献堂の儀式を行いました。祭司たちは契約の箱を神殿に運び入れ、至聖所に置きました(1 列王記 8:6)。そして、彼らが退くと、神の栄光の臨在を表す雲が神殿を満たしました(8:10−11)。神の臨在が目に見える形で、再び神の民に訪れたのです。
- アダム
- アブラハム (2000)
- モーセ (1500)
- ダビデ (1000)
- ネヘミヤ (500)
ダビデとソロモンの時代が終わると、神の民は何度も他の神々を礼拝するようになり、その状態が400年ほど続きました。
ソロモンの治世の後、王国は二つに分かれました。北部の十部族がダビデの家系からの独立を宣言しました。北王国には19人の王が登場しましたが、彼らは皆主の目に悪を行いました。そして北王国は崩壊し、その民は散らされました。
南の二部族は、ダビデの家系の王たちの下で存続しました。これらの王のほとんどは、民を率いて他の神々を拝ませました。このような偶像崇拝は、神にとって非常に不快なことであったため、神はご自分の民を敵の手に渡されました。
バビロンの王はエルサレムの町を包囲し、エルサレムは瓦礫の山となりました。神殿は破壊され、生き残った人々は捕らえられ、バビロンに連れて行かれました。
しかし、神はどんなときでも約束を守られるお方です。このような暗黒の時代であっても、神の民には希望がありました。70年後、神の民は捕囚の地から戻り、エルサレムの町を再建することになりました。
彼らの指導者は、ゼルバベルという名の建築家、エズラという名の聖書学者、そしてネヘミヤという優秀な戦略家でした。
5. ネヘミヤ
神の民が捕囚の民となってから70年後、バビロニア帝国はメディアとペルシャ帝国の台頭によって陥落しました。新しい王キュロスは、エルサレムへの帰還を希望するユダヤ人の捕囚民は誰でも自由に帰還できるという布告を出しました。そして、約五万人が神の都に新しい共同体を作るという構想を描きました。
最初の指導者のゼルバベルは、エルサレムに新しい共同体を築き、彼の指導のもと、人々は家を建て、神殿を再建しました。しかし、問題がありました。
神殿の中心にある至聖所には、契約の箱が置かれていて、神がご自分の民と出会う場所とされていました。しかし、エルサレムが瓦礫の山と化したとき、契約の箱は失われてしまったのです。そして、インディアナ・ジョーンズ《訳注:映画「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」の主人公》の努力にもかかわらず、その箱は発見されていません!
箱がなければ、神殿はもはや神の臨在が彼の民たちの間に下りてくる場所ではありません。箱がなければ、至聖所はただの空っぽの部屋でしかないのです。人々は礼拝のために集まりましたが、神の臨在の雲は決して下りてきませんでした。そして、私たちの主イエスの時代になると、神との出会いの場であったはずの神殿は「強盗の巣」と化していました(マタイ 21:13)。
ゼルバベルの後、神はエズラという名の聖書学者を起こされました。「彼はイスラエルの神、主がお与えになったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、主の御手が彼の上にあった」(エズラ 7:6)。
しばらくして、神はネヘミヤという名の有能な計画立案者であり、組織運営者である人物を起こされました。彼がエルサレムに来てみると、都市には城壁がありませんでした。そこで、神は城壁再建への思いを彼の心に起こされました。
城壁が再建されると、人々は公共の広場に集まり、エズラに律法の書をみなの前に持ち出すよう求めました。
民全体が、一斉に水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持ってくるように、学者エズラに言った。(ネヘミヤ 8:1)
集まった群衆は、約五万人にのぼりました。そして、この群衆はエズラにモーセの律法の書を持ってくるように求めました。五万人の群衆は、どのように要求を示すでしょうか?大声で唱えるのです!この群衆は神の言葉に非常に飢えていて、「聖書が欲しい!聖書を出せ!」と叫び始めました。
祭司エズラは神の言葉を開きました。彼はレビ人たちに支えてもらい、その務めを果たしました:
彼らが神のみおしえの書を読み、その意味を明快に示したので、
民は読まれたことを理解した。 (ネヘミヤ 8:8)
神の言葉を読み、説明し、適用すること ー それが神の民を作りあげていくためにエズラがとった戦略でした。
この日の出来事は、今現代私たちが聖書を開いたときに何が起こるかを示しています。
聖書が開かれると、神の民は悲しむ
神の言葉が読まれ、説明された時、民の最初の反応は泣くことでした。
民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。 (ネヘミヤ 8:9)
神の御言葉の光が私たちの人生に差し込むとき、私たちは自分がどれほど神から遠く離れているかに気付かされます。そして、自らの不足を感じるようになります。ですから、聖書を開いて最初に思ったことが、その言葉を受け取るに自分は値しないということでも、驚かないでください。神の御言葉はあなたをそのような場所へと導きますが、決してあなたをそこに置き去りにすることはありません。
聖書が開かれると、神の民は喜ぶ
「…悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」(ネヘミヤ 8:10)
聖書を開くことは、大きな喜びをもたらします。なぜなら、聖書は最初から最後まで良い知らせだからです。その場にいた神の民は、自分の罪や失敗に心を奪われたまま帰宅したのではありません。聖書が開かれると、彼らは神の恵みとあわれみを発見し、力を受け取りました。
ネヘミヤが「主を喜ぶこと(the joy of the Lord)」(8:9)と語っていることに注目してください。神はご自身のうちで最高に喜んでおられるのです。不幸な神との交わりに喜びはないので、これは良い知らせです。
もしあなたが、神がその民に対して常にしかめ面をしていると考えるなら、神を求めることはないでしょう。しかし、神ご自身が最高に喜んでおられる存在だと分かれば、あなたは神に引き寄せられるでしょう。そして、神を知るにつれ、神にある喜びがますますあなたの内にあるようになります。
聖書が開かれると、神の民は希望を持つ
ネヘミヤの時代、神の民は神殿に集まりました。彼らは、賛美の歌を歌いました。祈りと贈り物といけにえを献げました。しかし、神の臨在の雲は決して下りてきませんでした。
神を愛する人々は、神の臨在を待ち望みました。そこで、神は預言者を遣わし、いつの日か神がご自分の神殿に来られることを約束してくださいました。
「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。
彼は、私の前に道を備える。
あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。」(マラキ 3:1)
この預言は、イエス・キリストが生まれたときに成就しました。
イエスは、ご自身のからだのことを神殿として語られました(ヨハネ 2:19−20)。この神殿(ご自身のからだ)は破壊されますが、三日後によみがえると言われました。そして、ご自身のからだを神殿とすることで、イエスは、私たちが神と出会う場所は、イエスであると言われていたのです。
旧約聖書では、神殿が神と出会う場所でした。しかし、新約聖書では、神と出会う場所は、イエス・キリストというお方のうちになります。旧約聖書は、なぜ私たちにイエス・キリストが必要なのかを説明しています。新約聖書は、イエス・キリストが来られたときに何が起こったかを教えています。
- 神がご自分の民をどのように扱われるかを表す言葉を一つ選ぶとしたら、あなたは何を選びますか?
- 旧約聖書の物語から教えられたことで、今後心に留めたいと思うことが一つあるとしたら、それは何ですか?
- 旧約聖書の中で、イエス・キリストを指し示している箇所を、一つか二つ挙げてください。