勝利と大惨事の間には、多くの場合、紙一重の差しかありません。ソロモンが王座に就いたとき、神の民にとって全てがうまくいっていました。賢明なリーダーのもとで強固に団結し、国に平和が保たれていました。神殿が献堂されたときには、神の臨在が彼らの間に下りてきました。しかし、時が経つにつれ、ソロモンの成功は民の間に無頓着な姿勢を生み、彼の治世の晩年には将来の災いの種が蒔かれていました。
大惨事への道のり
ソロモンは三つの間違いを犯しました。第一に、彼は傷ついた人々のことを考えなくなりました。王の関心はエルサレムに集中して、南部の人々は繁栄しましたが、北部の兄弟たちは強制労働の計画の下で苦労し、ますます自分たちが疎外されていると感じるようになりました。
ソロモンは北部の人々はそれほど重要ではないと思ったのでしょう。しかし、彼の近視眼的なリーダーシップは長期的な影響を放置し、彼が息子レハブアムに国を譲ったときには、分裂の種がすでに植えられていたのです。
第二に、ソロモンは快楽主義的な生き方へと堕落しました。ソロモンには、ほぼ無限の権力と莫大な財産があったので、実質的に望むことは何でもすることができました。若い頃は、神の栄光を現すことを成し遂げるために自分の時間、エネルギー、そしてお金を注ぎましたが、人生の後半には、好き勝手に過ごすために自分の地位を利用しました。
ソロモンには700人の妻と300人の側室(1 列王 11:3)がいて、彼の破滅の種となりました:「ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つにはなっていなかった」(11:4)。
第三に、ソロモンは正しいことではなく、人々が支持することを選ぶようになりました。多くの外国人妻と結婚したので、妻たちが礼拝する神々の祭壇を築いてほしいという圧力に屈してしまいました:「ソロモンは、モアブの忌むべきケモシュのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。アンモン人の、忌むべきモレクのためにも、そうした。彼は異国人であるすべての妻のためにも同じようにしたので、彼女たちは自分の神々に香をたき、いけにえを献げた」(11:7−8)。
これが神の民の間での目に余る偶像崇拝の始まりでした。ソロモンの治世の開始時には、エルサレムは生ける神が御名を住まわせた場所でした。しかし、ソロモンの治世の最後の頃には、エルサレムは他の神々をまつる祭壇でいっぱいになりました。エルサレムを訪れる人は誰でも、イスラエルの神は、多くある神々の一つに過ぎないという結論に至ったでしょう。
ソロモンは人生の前半に神のために素晴らしいことを数多くしましたが、後半には、自己中心的な生活に陥り、それまで行った良かったことの大半を覆し、無効にしました。ソロモンは父親のダビデから団結し、平和になった王国を受け取りましたが、息子には間もなく分裂して、戦争することになる王国を引き渡しました。
レハブアムが国を引き継いだとき、北の人々の不満に直面しました。彼らはヤロブアムをリーダーにし、彼のもとに集結し、彼を自分たちの王にしました。そして、北の十部族は、神が祝福すると約束されたダビデの血筋から別れていきました。
北王国の歴史
ヤロブアムは北王国の十部族の抜け目のないリーダーでした。彼は宗教がもつ結束力を理解していました。もし北王国の信仰心のある人々が神殿で礼拝するためにエルサレムに行き続けたら、彼らは南王国の兄弟姉妹と共有した団結を思い出してしまうだろうと、ヤロブアムは見抜いていました。
そこでヤロブアムは自分の礼拝所を設立することにしました。彼は二頭の金の子牛を作らせて、人々に言いました:「もうエルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトからから連れ上った、あなたの神々がおられる 」(1 列王 12:28)。これは、アロンが砂漠で金の子牛を作ったときに使ったのと同じ言葉でした(出エジプト 32:8)。
その後、さらに悪いことが続きました。ヤロブアムは息子ナダブに王国を手渡し、ナダブはバアシャによって殺害されるまで父のやり方を続けました。ナダブの次は、酔っぱらいで殺人者であるエラが王になりました。それから、反逆者のジムリが七日間だけ王位につき、それから「彼以前の誰よりも悪いことをした」(1 列王 16:25)オムリへと王位は継承されました。最後に、オムリの悪を更に上回る、「彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った」(1 列王 16:30)アハブがいました。アハブは、悪名高いイゼベルと結婚しました。イゼベルは、宮殿の権力を使って、神の預言者たちを追跡し、殺す計画を実行しました。
ソロモンの死後、イスラエルは面影もないほど変わり果ててしまいました。ソロモンの治世の初めの頃は、王は「唯一の神がいる」と言っていました。ヤロブアムの時代になると、公式の立場は「多くの神々がいる」となり、アハブの時代になると、神は唯一であると宣言することが許されなくなり、激しい迫害の対象とされました。そこで神は、民の間で真の礼拝を回復するために預言者エリヤを送られたのです。
真の礼拝は明かされた真理に対する応答です
カルメル山は大きな対立の現場でした。アハブは「イスラエルのすべての人々を、四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシェラの預言者と共に、カルメル山に集め」ました(1 列王 18:19)。全員集まったとき、エリヤは次の問によって彼らを挑戦しました:「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え」(18:21)。エリヤは伝統に訴えることをせず、真実に訴えたのです。主を礼拝する唯一の理由は、主が神であるということです。
あなたの両親がクリスチャンだったから、あるいはキリスト教があなたの文化の主要な宗教であるからといって、あなたがクリスチャンであるべきだと言う権利は誰にもありません。キリスト教は、それが真実であるという主張にすべてがかかっています: 「もし主が神であれば、主に従いなさい。」
エリヤの問は真実か偽りかという区分けを前提とするものであり、人々はその前提を受け入れられずにいました。彼らは、礼拝する神は個人的な選択であり、その信仰は私的な問題であり、すべての人が自分の人格に合った礼拝の方法を見つけなければならないという考えのもとで育っていました。
しかし、礼拝できる前に、あなたは神が誰であるかを知る必要があります。真の礼拝は、明かされた真理に対する応答です。公の礼拝は真理を土台として築かれるべきです。私たちは真理を歌い、真理を読み、真理を祈り、そして真理を宣べ伝えなければなりません。
真の礼拝は生きている神に焦点を当てます
エリヤは生きている神は唯一であることを民に知ってほしかったので、バアルの預言者を招き、犠牲のささげ物を準備して、バアルに火を送るよう呼びかけるようにと命じました。バアルの預言者たちはこの挑戦を受け、彼らの神に呼びかけました。 「バアルよ、私たちに答えてください」(18:26)。彼らは祭壇の周りで踊り、自分自身を熱狂させました。
とても明るく、色鮮やかで活気にあふれて始まった儀式は、やがて暗くなり、さらに不吉な要素が現れ始めました。バアルの預言者たちは「自分たちの身を傷つけ」(1 列王 18:28)始めました。敗北を認めたくないがために、自分で自分を苦しめるようなことをしたのです。
しかし、どんなに激しい行動をとっても、「何の声もなく、答える者もなく、注目する者もなかった」(18:29)と記されています。バアルへの礼拝は自己表現の演技だけで終わりました。聞く者がいなかったので、預言者たちは独り言を言っていたに過ぎなかったのです。
歴史のある時点で、人々がバアルと呼ばれる神についての神話的な物語を作り上げ、それらを書き留めたので、バアルへの礼拝が発展しました。それから他の人々が木を彫り、バアルの像を作りました。しかし、バアルの崇拝には、人間の心が夢見たものや人間の手が作ったもの以外に何もありませんでした。すべてが文化的な創造物でしかなかったため、それには力がなかったのです。
現代の多くの人々は、キリスト教もバアルへの礼拝と全く同じように発展してきたと結論づけています。聖書も古代の神話の本であると推定して、人間文化の創造物であると仮定するので、聖書には権威がないと主張します。彼らの仮定が正しいなら、結論も正しいでしょう。ある文化によって生み出された宗教は、他の文化に押しつけるべきではありません。ある世代が選びとっただけの宗教なら、他の世代に強制すべきではありません。すべての宗教が人間の創造物であるならば、真実であると主張できる宗教は存在しません。
真の礼拝は、受け入れるに値するささげ物に焦点を当てます
しかしエリヤは、生きている神は文化的な創造物ではないことを知っていました。彼は生きた神についての知識が回復されることを望んでいたので、祭壇を築き、その上に水を注いで犠牲のささげ物を水浸しにしました。
それからエリヤは祈りました:「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神で[あることが]…今日、明らかになりますように。 私に答えてください。主よ、私に答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたこそ神で[ある]…ことを知るでしょう。」(1 列王 18:36−37)。
「すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした」(18:38)。薪を燃やすだけでなく、石や土さえも燃やす火の強さを想像してください!人々が火を見た時、彼らはひれ伏して、叫びました:「主こそ神です。主こそ神です」(18:39)。
このときの群衆の中に自分がいたと想像してみてください。あなたは、ある宗教は別の宗教と本質的に同じであるという当時の文化的常識を受け入れていました。しかし、エリヤが祈っていると、空が火で埋め尽くされるのを見ます。突如として、エリヤが真理を語っていたのだということが、あなたに明らかになります。主は神であり、そして今や主の裁きの火が落ちようとしているのです!
この素晴らしい真理について考えてください:神の火は、人々にではなく、犠牲のささげ物に降りました。このことは、神の裁きが注がれたイエス・キリストの十字架を私たちに示しています。イエスを十字架につけた兵士たち、あるいは彼を嘲笑った群衆の上にではなく、私たちの犠牲となられたイエス自身に神の裁きは注がれました。罪人が受けねばならなかった裁きをイエスがその身に受けてくださったのです。裁きが私たちの上に落ちないように、イエスの上に落とされたのです。神は、裁きを私たちからそらして、イエスの上に注がれることによって、神は神ご自身と私たちが和解するようにしてくださったのです。
開かれました。
真の礼拝は常に明かされた真理への応答です。それは生きている神に向けられ、主イエス・キリストに焦点を合わせ、御霊に導かれるものです。真の礼拝は、神の真理が宣言され、イエス・キリストが崇められ、自らの人生において御霊の働きに服従する人々が集まるところで行われます。
もし、神への礼拝において成長したいのなら、聖書を開き、神がご自身について語られていることに心を浸してください。御霊はその真理を用いて、あなたの心を礼拝へと促します。