聖書は私たちに悪の起源についての完全な説明を与えることは決してありませんが、悪魔とは、驕り高ぶって、神の立場を奪おうとした天使であることをはっきりと伝えています(イザヤ14:12-14)。
サタンは、反乱したために、神の臨在から排除され、地上に投げ捨てられてしまいました。そのため、人類の物語の初めから、神の御業を破壊することに熱心な敵が存在したのです。
この敵は、一般的には、サタン、悪魔、または「偽りの父」(ヨハネ 8:44)と呼ばれています。そしてこの敵は、彼が始めた反乱に人類を勧誘しようとし、その最初の目標は男と女に悪を経験してもらうことでした。
相手のプレーを読む
優れたバスケットボールのコーチは、相手に対する効果的な防衛ができるように、相手のプレーを研究します。サタンはエデンの園で最高の技を仕掛けてきました。あなたがこれらの手口を学ぶことができれば、それらに対して防御することができるでしょう。
第1のプレー:混乱
サタンの最初の手口は、疑問を投げかけることです。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか」(創世記 3:1)。神は一つの簡単な指示を与えられました。そしてサタンの最初の行動はそれに疑問を投げかけることでした。神のことばに疑問を呈することで、サタンは男と女がより簡単に主の命令を無視できるようにしたのです。
サタンがあなたに罪を犯させようとするときはいつでも、最初の戦略は混乱を引き起こすことです。サタンはあなたがガードを緩めるように仕向けます。あなたがしたいと思っている罪は、実は神が禁止していることではないのだとか、少なくとも聖書がその問題についてはっきり書いてはいないと、ほのめかすのです。
第2のプレー:誤信
神は罪が死に至ることを明らかにされました(2:17)。しかしサタンは女に罪の結果が大げさに誇張されていると、ほのめかします:「あなたがたは決して死にません」(3:4)。
この戦略が導く結果を理解するのは難しくありません。サタンは女に神の恵みを誤信させようとしているのです。 「結局のところ、神はあなたを愛している」とサタンは言います、「だから、神があなたに悪いことが起こることを許すはずがない。」罪を犯させようとサタンがあなたを誘惑するときは、あなたのガードを弱めるために、それを行っても何も起こるはずがないと思わせるのです。
第3のプレー:野心
アダムとエバは神に似せて造られました。しかしサタンは彼らがもう一段回上に行くことができるとほのめかします:「目が開かれて、あなたがたは神のようになって善悪を知る者となる」(3:5)。
これは敵の最も巧妙な戦略の一つです。サタンは、私たちが神の座につくべきだと言うのが好きです。しかし、私たちのことを高く買っているからではありません。神を大変憎んでいるからです。私たちに善悪を教える神など必要ないと、サタンは私たちのプライドを揺さぶってきます。サタンのメッセージは今でも変わりません:「あなた自身が神になって、何が正しいか自分で決めたらよいのだ!」
悪の知識
神の最初の律法は、他のすべての戒めと同様に、神の愛を表すものでした。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない」(2:16- 17)。
神はすべてを良いものとして造られました。神がこの木から食べないようにとアダムに言われたのは、アダムを守るためでした。 「アダム、あなたはすでに善について知っています。しかし宇宙には悪と呼ばれる恐ろしい現実があることを理解しなければいけません。私はあなたにそれを経験してほしくないのです。ですから、決してこの木からは食べてはいけません!」しかし、アダムとエバは、この悪についての知識を持ちたいと思ってしまいました。そして、それ以来私たちはみな、悪と共に生きることになったのです。
楽園からの追放
悪は神のもとで存在することができません。そのため神は、アダムとエバを追放しました。そして園の入り口にケルビムと呼ばれる天使を置き、命の木への道をふさぎました。(3:23、24)。
アダムとエバは神の祝福の外にいました。彼らの完璧な結婚はぎくしゃくしたものとなりました。仕事は苛立ちの原因となりました。彼らは痛み、恐れ、そして喪失を経験し、死はもはや避けることのできない恐ろしい現実となりました。何より、彼らは誰もいない世界へと追い出され、神から遠く離れてしまったのです。楽園は失われ、戻ることはできませんでした。
男と女を追放すると、神は「いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣を置かれた」(3:24)。前後にきらめく炎の剣は、神の裁きを表しています。それを回避することは不可能でした。この光景はアダムにとって恐ろしいものだったに違いありません。
これが、聖書による人間の状態の診断です。私たちは悪についての知識を持ち、神の臨在から排除されています。私たちはこの悪の知識から解放されることはできず、神の楽園に戻ることもできません。では、この診断に対する治療法はどのようなものなのでしょうか?
呪いで始まった希望
希望はエバとアダムが罪を犯したその日に始まりました。そして、それはなんと呪いで始まったのです!神は蛇に言いました、「おまえは呪われる」(3:14)。
呪いとは「神性の宣言であり、人や物を滅亡に引き渡す」(注1)ことです。ですから、神が蛇を呪ったとき、神は、悪が栄えることはないと宣言されたのです。サタンには勝ち目がありません。アダムとエバはこの宣言を聞いて大喜びしたに違いありません。
私たちは神が悪を呪ってくださったことに感謝することができます。呪いがなければ、私たちは永遠に悪の知識に取りつかれたままでいなければなりません。しかし、この呪いのおかげで、私たちには希望の扉が開かれます。もし神が悪を滅びに引き渡さなかったなら、他の誰にそれができるでしょうか。人類の歴史を通して私たちはそれを試みましたが、すべて失敗に終わりました。日々のニュースは暴力と虐待に支配され続けています。私たちはそれから解放されることはできません。しかし、神はサタンに言いました、「おまえは呪われる」と。そしてその瞬間から私たちの敵は最終的に破壊される運命となったのです。
それから神は二つ目の呪いを宣言しました。男に向かって、神は言いました、「のろわれる…」アダムは息を止めたに違いありません。神は蛇を呪いました。そして今、神はその恐ろしい言葉を口にしながら、アダムをまっすぐ見ています。アダムは自分が完全に滅ぼされるのだと思ったに違いありません。しかし、それに続く言葉は思いがけないものでした。「おまえはのろわれる」という代わりに、神は、「大地は、あなたのゆえにのろわれる」と言われたのです(3:17)。
ここで私たちは神について知る必要がある最も重要なことの一つを発見します。神は悪を破壊すると宣言しましたが、同時に神は、呪いをそらしました。男と女に直接呪いが降りかかるのではなく、大地に落ちるようにされました。彼らが神と和解できる可能性を残してくださったのです。
神は正義な方です。そのため呪いはどこかに向けられなければいけません。そこで、神は適切な時に、御子を遣わしてくださり、私たちの罪の呪いを彼に向けました。それが十字架の意味していることです。キリストが私たちのための呪いを受けることによって、私たちを律法の呪いから救い出したのです。
いつの日か、キリストの勝利の効果によって、地球全体が一新されます。呪いを大地にそらすことによって、神は被造物を虚無に服するようにされましたが、神はまた「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかる」(ローマ 8:21)と約束されました。
進行中の戦い
それから主なる神は蛇に言いました、「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ」(創世記 3:15)。
「敵意」とは、人間の歴史において何世代も続いていく悪との絶え間ない戦いを要約した言葉です。私たちは常に悪を取り除こうとしていますが、欲求不満、苦痛、病気、そして死を超越することはできません。私たちは「悪の知識」にとらえられてしまったのです。しかし、救い主が来てくださり、悪を打ち負かしてくださると、神は約束してくださいました。彼は敵の頭を打つことによって致命的な打撃を与えるでしょう、そしてその戦いの中で、敵は自分を打った者のかかとを噛みます。
毒蛇の頭の上に立っていると想像してください。その蛇はあなたを噛んで傷を負わせます。しかし、あなたの負傷した足で蛇を圧迫することで、蛇を倒すことができます。同じように、キリストは彼の死を通して、敵に致命傷を負わせ、男と女が敵の力から救い出される道を開かれたのです(コロサイ 2:15参照)。
キリストは、悪の力を克服するためだけでなく、私たちが楽園に戻る道を開くために、天から来てくださいました。自分自身が神の楽園の外に立って、ケルビムと燃える裁きの剣を振り返って見ていると想像してみてください。あなたが見ていると、誰かが神の臨在の場から外に出てきて、あなたと一緒に立ってくださいます。それから彼は向きを変えて燃える剣の方へ進みます。あなたはそれを見ながら、身がすくみます。燃える剣は前後にぐるぐるとまわっています。そして彼がそこに着いたとき彼に何が起こるか、あなたには分かっています。しかし、彼は着実に、容赦なく前進し続けます。
剣は彼を打ち、彼を殺します。それは彼の体を壊します。しかし彼の体を壊すことによって、剣自体も壊されて粉々になりながら地面に落ちます。御子の死によって、神の臨在と祝福への道が開かれたのです。
開かれました
私たちが悪の知識をもって生きていて、神の臨在から排除されていることを理解してはじめて、自分たちが生きている世界がなぜこうなのかを理解し始めることができます。しかし、神は私たちを見捨てませんでした。悪との継続的な戦いのただ中に御子を送ってくださいました。十字架での死によって、御子は敵の力を打ち破り、神の臨在と祝福のうちにある新しい生き方を切り開いてくださったのです。
注1:Concise Oxford Dictionary, 6th ed.