聖書は天地の創造から始まります。そして、神が新しい天と新しい地を創造されるところで終わります。アダムが失ったすべてのものが回復され、さらに多くのものが与えられます。
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。(黙示録 21:1)
ヨハネは「新しい地 」を見ました。「新しい」とは、素晴らしく変わっているということです;「地」とは、不思議なほど馴染みがあるということです。クリスチャンの運命は、空想の世界で夢のような存在になることではありません。神は、この地球を創りなおし、命で満たし、再生してくださいます。「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります」(ローマ 8:21)。
新しい天と新しい地の喜びは、私たちの想像を遥かに超えています。しかし、神は二つの描写を使って、神の民がこれから向かう場所について示してくださっています。その二つとは、都と園です。
都
ヨハネの幻のこの時点で、私たちが知っている歴史は幕を閉じます。ニューヨーク、ロンドン、エルサレム、北京、モスクワはすべてなくなります!地球は、神の審判の燃えつくす熱によって崩れ去りました(2 ペテロ 3:10)。
そこで、ヨハネは新しい都市が、天から降りてくるのを見ますが、すぐにその輪郭に気付きます:「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが…神のみもとから、天から降って来るのを見た」(黙示録 21:2)。エルサレムは、聖書の物語において非常に重要です。神の臨在の雲が神殿を満たした時に、神が下りてきて民と会ったのもこの場所でした。
新しいエルサレムは、非常に広大でした!「御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった」(21:16;一万二千スタディオンは、約1,400マイル[2,200キロ]に相当します)。ヨハネの黙示録では、これからやってくる栄光を理解する助けとして様々な描写を使っていることを覚えておいてください。神に贖われた人々は、数え切れないほど大勢(黙示録7:9)ですが、その一人一人のために、神は場所を用意しておられることを表しているのです。
都の大きさは、三次元で語られています。「長さも幅も高さも同じである」(21:16)。つまり、完全な立方体です。ヨハネはこのことの重要性にすぐに気づきました。神が民と面会される神殿の至聖所もまた、長さ30フィート、幅30フィート、高さ30フィートの完全な立方体でした(1 列王記 6:20)。
古い都には、聖所がありました。新しい都は、都そのものが聖なる場所です。古いエルサレムでは、一つの部屋だけが神の栄光で満たされました。新しいエルサレムでは、都全体が神の栄光で満たされます。古いエルサレムでは、一人だけが神の臨在の場に入ることが許されましたが、新しいエルサレムでは、すべての民が永遠に神を楽しむことができます。
私たちが反抗し、その結果途方に暮れてしまうことを知っていながら世界を創造された神は、全てご存知でおられました。贖われた被造物の方が、無垢な被造物よりもはるかに神の栄光を放つことを知っておられたのです。新しく創造された地では、至る所に神の栄光が反映され、私たちの中にも、私たちの周りにも神の栄光が溢れます。
多く赦された人は多く愛し、神に贖われた子どもたちは「屠られた子羊は…ふさわしい方です」(黙示録 5:12)と賛美します。「あなたは…ふさわしい方です。あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い…ました」(黙示録5:9−10)。
園
幻のこの時点までは、ヨハネは新しいエルサレムを外側から見ていました。しかし、この時点で、中に入るように招かれます。中に入ると、映像が変わります。きっと非常に驚いたことでしょうが、美しい園がありました:「御使いは…いのちの水の川を私に見せた… こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた」(黙示録 22:1−2)。
聖書の物語はエデンの園で始まり、神はアダムとエバに家庭、仕事、人間関係、そして目に見える神の臨在という四つの素晴らしい贈り物を与えてくださいました。しかし、罪がこの世に入ったときに、その四つの贈り物はそれぞれ損なわれてしまいました。アダムとエバは園から追い出され、罪と痛みと死で傷ついた世界で家庭をもつことになりました。祝福されていた仕事は思い通りにならなくなり、世界最初の家族は分裂し、アダムとエバは目で見るのではなく、信仰によって神と歩むことになってしまいました。
罪がこの世に現れたときにパラダイスは失われました。しかし、聖書の物語の最後になると、失われた贈物が回復されるだけでなく、神の新しい園のある都では、以前のものをはるかに上回る贈物が与えられています。
より良い住処
[川の]こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒した。(黙示録 22:2)
古いエデンの園と新しい園との際立った違いは、神の新しい園のある都には、善悪の知識の木がないことです。新しい都では悪を知ることができません。新しい園では、悪が存在しないだけでなく、悪の可能性すらないのです。
古いエデンでは、男と女はいのちの木から食べることを許されていませんでした。しかし、今は自由に食べることができ、そこの木には十二種類の果実が実ります。果実の種類が豊かであるのは、神の臨在のもとで常に新たにされ、いのちが豊かだということを示しています。永遠は決して退屈なものではありません。
この世での人生の最大の喜びであっても、神の新しい創造にある素晴らしい喜びを知る手がかりに過ぎません。神の新しい園のある都での喜びは、アダムがエデンの園で経験したことを超えています。アダムが味わったことのない果実を堪能し、エバが知らない楽しみを味わうことになるのです。
より良い仕事
もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え[る]。(黙示録 22:3)
神である主が彼らを照らされるので…彼らは世々限りなく王として治める。(黙示録 22:5)
新しく創造された世界で、あなたは仕え、礼拝し、治めることになります。最初の園では、アダムは園を管理する仕事をして仕えました。神が造られたすべてのものを支配することが、神から託された仕事でした(創世記 1:26)。地を満たして、地を従えることが期待されていました(創世記 1:28)。蛇が来たとき、アダムは統治を維持することができませんでした。しかし、今や神の民は、仕え、治める立場を取り戻します。
治めると神が語っているのは、生活には秩序があり、管理できるようになるということです。仕事の不満から解放されます。もはや、時間の制限や、退屈な仕事や、争い好きな同僚や、意地悪な上司もありません。もはや予測不可能な感情の浮き沈みや意志の衝動に振り回されることもありません。危険や死に直面することもなくなります。
より良い仲間たち
都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。(黙示録 21:12−13)
古いエデンを楽しむことができたのは、一人の男と一人の女だけでしたが、今はおびただしい数の人々が門から入ってきています。神はこれらの人々を人間の歴史の苦しみから救い出し、彼らがこれまで経験したこともないような喜びに導いてくださったのです。
ヨハネは新しい園のある都に入る十二の門を目にしています。人々は、あらゆる方向から都にやって来ています:東の中国、北のロシア、南のアフリカ、西のアメリカから人がやって来ています。神に贖われ、和解ができた新しいコミュニティーには、すべての国から人が集められています。
ヨハネが見た幻では、それぞれの門に御使いが立っており、すべての門が開かれています(黙示録 21:12、25)。聖書の物語の初めでは、ケルビムが炎の剣でいのちの木の入り口を守っていました。しかし今は、キリストが裁きの剣を打ちくだき、御使いたちが門の前にいて、主に属するすべての人を歓迎しています。
主をより良く知る
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(黙示録 21:3)
この園のある都に神の臨在があるのは、最大の祝福です。エデンの園では、時折り神が降りてこられてご自身を明らかにしてくださいました。神は昼間の涼しい時に男と女と一緒に歩いてくださったのです。神は訪問者として園に来られました。神はご自身を彼らに押し付けることはせず、彼らが神を信じて従う関係を選び取れるようにしてくださったのです。そのため、神は来て彼らと共に歩き、関係を育まれました。
しかし今、神は、神の真理によって心が照らされ、イエスの十字架で心が柔らかくされたおびただしい数の人々を集めてくださいました。彼らの意志は聖霊の力によって導かれ、彼らは自由に神を愛するようになりました。ですから、神はもはや訪問者ではありません。神の御座が園のある都に降りてきて、民が神の臨在のもとで暮らし、永遠に神を楽しむことができるのです。主は「見よ。神の幕屋が人々とともにある」(黙示録 21:3)と勝利の宣言をされています。
開かれました
自分の居場所がないと感じる時は、この世のどの時、どの場所でも感じたことがないほど自然体でいられる日が来ることを覚えていてください。
仕事が思うようにいかないと感じるとき、神から与えられたすべての仕事に喜びと充実感を見出せる日が来ることを覚えていてください。
愛する喜びを経験するとき、あなたが主の前で経験することのほんの一部であることを覚えておいてください。
信仰について疑問を持ったり、苦悩したりした時は、いつか神の御顔を見ることができることを覚えていてください。神にまみえる時、あなたは神に似たものとなるのです。