聖書の物語の旅を続ける中で、神が愛であることを繰り返し見てきました。つまり、ご自分が創造されたすべてのもののために神は最善を求められておられることです。
また、神は聖なる方であると聖書は告げています。つまり、神はご自分の愛の対象を破壊するようなことには絶対に反対されるということです。人を愛するということは、同時にその人を滅ぼすものを憎むことであります。
私は、ガンで死の床にある息子を介護していたある夫婦のことが忘れられません。ある晩、その少年の母が私に言いました:「私はこのガンが憎い」。彼女は憎悪に満ちてそう言いましたが、当然のことでしょう。息子はガンに滅ぼされていました。ですから、彼女は、自分の愛の対象を滅ぼそうとしているものを憎んでいたのです。
愛と憎しみは、聖書でよく対となって登場します。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい」(ローマ 12:9)。愛と憎しみは、同じコインの裏表です。悪を憎まないなら、善を愛することもありません。愛が本物なら、愛するものを滅ぼすすべてを憎むことになります。
神は愛であり、聖なるお方です。そして、神は主権者でもあります。つまり、すべてのことを絶対的に支配しておられるのです。神が臨在されない場所はありません。神が成し遂げることができな働きはありません。そして、誰の許可を得なくてもよいのです。
ガンで死の床にある息子の母親は、息子を滅ぼそうとしているものに必死で抵抗していましたが、彼女にはそれに打ち勝つ力がありませんでした。
神は悪に執拗に対抗し、その破壊的な力に打ち勝つことができます。神は人を破壊する罪から、愛する人を救い出すことができ、神の愛は決して挫折することがありません。
神を怒らせるもの
神の怒りとは、悪が勝利することを決して許さないという断固とした神の決意表明であり、私たちはそれに感謝すべきです。神が弱々しいほほえみを浮かべるか、眉をひそめて眺めるだけの存在だったなら、恐怖につきまとわれた世界で平和を求めるどんな希望があるというのでしょうか?悪と暴力がはびこる歴史をもつ世界に対する希望は、あらゆる悪に対して断固として立ち向かい、それを滅ぼす意志と力を持つ神にあります。
神は愛です。怒りは神にとって本質的なものではありません。世界に罪が存在しなければ、神の怒りも存在しません。ですから、聖書は決して、神は怒りであるとは言いません。むしろ、神は怒るのに遅いと書いてあります(詩篇 103:8)。聖書の物語から、堕落した世界に対して神がどれほど忍耐しておられるかを知ることができます。しかし、神の怒りは、不敬虔や不義によって引き起こされることがあります。
「というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されている」(ローマ 1:18)。不敬虔な人とは、神と一切関わりを持ちたくない人のことで、不義の人とは、神に従うことを拒絶する人です。不敬虔で不義な人とは、神に対して「私はあなたを知りたいと思いませんし、あなたに従うこともしません」言う人です。
神に対してこの立場を維持するためには、被造物の美と壮大さの中に神がご自身を現した「真理を阻む」必要があります。強力なバネの上に乗って押し縮めているところを想像してください。バネを縮めておくためには、全体重をかけておく必要があります。そうするにはエネルギーが必要です。一瞬でも気を抜けば、バネは伸びてしまいます。
同じように、神に反抗し続けるのにもエネルギーが必要です。神と関わりたくない人は、一生懸命神を避けなければなりません。なぜなら、神の啓示が私たちの周りの至る所にあるからです。神の力と栄光は、被造物の輝きを通して明らかにされているのです(1:20)。
神は人を手放す
「神の怒り」は、無差別で無原則の怒りの爆発ではありません。なので、神が感情を抑えきれなくなり、苛立ちのあまり怒りを爆発させたなどと、決して考えてはいけません。神は怒りは、人をそれぞれが選ぶままに進むことを許されることに表現されています:「そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました… 神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました… 神は彼らを無価値な思いに引き渡されました」(ローマ 1:24、26、28)。
ある個人や集団が、「神はいらない。神に従うつもりはない」と言うなら、神は一歩下がって、自由に選んだ結果を生きるようにさせることで、その怒りを表現されます。
ガラスの花瓶を持っている女性を想像してください。彼女がその花瓶を「手放す」と、重力に引っ張られることになります。石のように落下し、粉々になります。神が不敬虔で不義な人を「引き渡す」と、同じ状態になるのです。
自分の心に不純なものや恥ずべき情欲を見つけたとき、次のように思うかもしれません:「神は私を手放されたのだろうか?もし神が私を引き渡されたのなら、私にはもう希望がないということなのだろうか?」
希望の枠の外にいる人はいません。だからこそ、パウロは言いました、「私は福音を恥としません」(1:16)。福音とは、自分の罪の力に圧倒された人を神が救う手段なのです。
怒りを蓄える
神の怒りはすでに明らかにされていますが、それは一部にすぎません。過去には、裁かれなかった悪や、明るみに出なかった嘘が溢れています。しかし、いつまでもこの状態が続くわけではありません。神は私たちに対して、大いに忍耐しておられますが、それは、私たちが悔い改めて神のもとに立ち返るためです。
「それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しい裁きが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています」(ローマ 2:4−5)。
私たちは蓄えたいものがたくさんありますが、怒りはその一つではありません。神は私たちを滅ぼすものをすべて滅ぼしますが、唯一の希望は、私たちが罪と共に滅ぼされないように、罪と分離されることです。
今現在、神の怒りは部分的に明らかにされています。そして、悔い改めを拒んだ人々に対して神の正しい裁きが現れる日のために、神の怒りは蓄えられています。しかし、聖書は、神の怒りが現された三つ目の事例について語っています。
十字架に注がれた神の怒り
神は怒りを注ぐ対象として、イエスを遣わされました。次のセッションで取り上げる「宥めのささげ物(贖罪)」とは、このことです。パウロは「キリスト・イエスによる贖いを通して…神はこの方を…血による宥めのささげ物として公に示されました」(ローマ 3:24−25)と記しています。私たちを滅ぼそうとするものに対する断固とした敵視を、十字架にかかったイエスに注がれたのです。
罪に対する神の怒りがイエスに注がれたとき、イエスに信頼するすべての人に注がれるべきだった怒りは、枯渇され、使い果たされました。神は言われます、「今、間もなく、わたしは憤りをあなたに注ぎ、わたしの怒りをあなたに出し尽くす」(エゼキエル 7:8)。「出し尽くす」というのは「なくなる」ということを意味しています。十字架で起こったことの核心がこれです。イエスが私たちの罪に対する宥めのささげ物になってくださったときに、罪に対する神の怒りはイエスの上に注がれ、使い尽くされたのです。
神が憎む罪と、神が愛する人を分離する方法として、神はその罰をイエスに負わせました。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」(2 コリント 5:21)。
神は「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された」(ローマ 8:32)。「死に渡された」という言葉に注目してください!神は御子から手を放されたのです。キリストは地獄へと落ち、叫ばれました:「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ 27:46)。御父の愛の対象であるキリストが、怒りの対象となられたのです。なぜなら、神の怒りの対象であった私たちが、神の愛の対象でもあったからです。
ガラスの花瓶を持っていた女性のことを思い出してください。その女性が右手を放したら、きっと花瓶が粉々になるでしょう。しかし、もし彼女が左手でそれをつかまえたなら、花瓶は救われます。これこそ、イエス・キリストにおいて神が私たちのためにしてくださることです。滅びにつながる罪から私たちを救ってくださるのです。
神の裁きを受け、永遠に神の御前から追放されることは、究極の災難です。他のどんな苦しみとも比較できません。怒りはイエスの上で使い尽くされたのに、なぜ自分のためにそれを蓄えて生きるのですか?神にはイエスの義をあなたの義にする用意があるのに、なぜあなたは自分の頼りない正しさに頼ろうとするのですか?主イエス・キリストを信じてください。あなたをあわれみ、新しい人にしてくださるように祈り求めましょう。
開かれました
神の怒りは、聖であり、愛である神の、悪に対する反応です。怒りは神の本質に含まれていません。しかし、神が明確に啓示してくださっている真理を抑圧する人々の不敬虔と不義によって、神の怒りが引き起こされます。人をそれぞれの欲望に引き渡されることによって、神は怒りを表現され、その結果、人々は罪深い欲望、恥ずべき情欲、無価値な思いに捕らわれるようになります。
しかし、神は私たちをご自身の怒りから救い出すために、御子を遣わしてくださいました。イエスが十字架で死なれたとき、イエスは私たちのために神の怒りに耐えてくださいました。「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ 8:1)。