ホーム画面に保存
Open the Bible can be just a tap away! Tap the icon at the bottom of your browser and choose "Add to Home Screen"
閉じる

ログイン

「聖書を開く」にログインしてください。

登録する

Save your progress by creating a FREE account! Get started by filling out the info below:

アカウントの回復

新しいパスワードをリクエストする。

以下にメールアドレスを入力すると、仮のパスワードがメールで送信されます。パスワードの変更は、次回ログイン時に行うことができます。

お問い合わせ

ご意見、ご質問等ございましたら、お気軽にお問い合わせください。

ローマ人への手紙6章1−14節

罪に死、神に生きる

6章1それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。2決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。

5私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。6私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。7死んだ者は、罪から解放されているのです。8私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。9私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。10なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。11同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。

12ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。13また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。14罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。

新改訳聖書

次へ

ローマ書5章では、信仰によって義と認められたとき、私たちは神との平和を得て、神の恵みが私たちのすべての罪を覆ってくださることを学びました。それならば、もっと罪を犯してもいいのでは?パウロはローマ書6章でこの疑問に答えています。「恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか」(6:1)。と問い、「決してそんなことはありません」(6:2)と答えています。その理由は、キリストとの結びつきです。

しばらく前に、私は交通違反の切符を切られました。免許証にこの違反が記録されることになると警官は説明しましたが、イリノイ州の法律では、この記録を削除してもらえる方法があるとも教えてくれました。「講習を受ければ、違反がなかったことになる」と彼は言いました。

このシステムの仕組みについて、考えてみてください。ある日、職員が疲れてあくびをしながら、イリノイ州で免許を持っているスミスのリストをスクロールして、違反を書き込むべき哀れな男を探し出しているのだと、想像することができます。

それから、何週間後に、別の職員が、また同じリストをスクロールして、今度は削除ボタンを押して、違反の記録を消すという面倒な仕事をすることになるのです。この手続きは法律に基づいていますが、まったく私情を挟みません。どんな人間関係も介在していません。

イエスが死ぬことで、私たちの罪の記録を消してくださったことは、素晴らしい真実です。しかし、私たちがそれだけしか理解していないとすれば、私たちが神を愛する愛は、パソコンを操作して私の違反を削除してくれた人に対して私が持つ薄っぺらな愛情と同様のものでしかありません。

キリストが死んでくださったのは、罪の記録を消すためだけではなく、神を愛する関係へとあなたを招くためでした。救いとは、名前も知らない天国の職員が、手の届かないところで行う手続きではありません。神があなたと親密な関係を築くために、あなたに手を伸ばしてくださっていることなのです。

キリストと一つになる

あなたがイエス・キリストを信じる信仰を持つとき、聖霊がイエスの死と復活をあなたの今の命と繋いでくださっているのです。「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです」(ローマ 6:5)。

イエス・キリストの死と復活において、イエス・キリストと「一つになる」とはどういうことでしょうか?

次のように考えてみると良いでしょう:以前のあなたに当てはまるいくつかの事実がありました:あなたは罪の支配下にあり、神から疎外されていて、自分ではどうすることもできませんでした(ローマ 5:21、エペソ 2:12、2:1)。もし、その状態のままであれば、あなたは有罪の宣告を受けていたでしょう。しかし、あなたがイエスを信じるようになったとき、その人は存在しなくなりました(ローマ 8:1)。その人は、イエスと一緒に十字架で死んだのです。パウロが「私たちがキリストとともに死んだ」(ローマ 6:8)と言っているのはこのことです。

しかし、話はそこでは終わりません。私たちが「キリストキリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになる 」(6:5)と、パウロは記しています。聖霊があなたをキリストに浸したとき、新しい人が誕生したのです。今やあなたは、恵みの支配下にあり、神の子どもとなり、永遠のいのちが与えられています(ローマ 5:21;ガラテヤ 4:4−7;ローマ 6:22−23)。それでも、あなたはたくさんの失敗をするでしょう。しかし、どんなに多くの失敗をしても、かつての自分に戻ることは決してありません。その人は死に、いなくなりました。存在しなくなったのです。

キリストと一つになるとは、生活を一新することや、新たな決断をすることよりもはるかに大きなことです。聖霊の力によって、キリストのいのちがあなたの中に流れ込むことなのです。

イエスはこの一つになるということについて、次のように語りました:「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」(ヨハネ 15:5)。ちょうど、樹液がぶどうの木を上って枝に流れ込むように、キリストのいのちが、キリストから神の民へと流れ込みます。あなたの罪が赦されて、天国行きのパスポートにスタンプを押してもらうような法的な手続きを遥かに超えるものが、ここにはあります。神のいのちがあなたの中に注がれるのです。これ以上に親密な関係を想像できるでしょうか。

聖霊が私たちをキリストと一つにするとき、私たちの人生に愛をもって侵入してきます。良い結婚とは、法的なものであると同時に関係的なものです。拘束力のある契約であると同時に、親密な結合でもあります。それは、深い安心感と愛情を培います。安心できて親密な愛の関係に入ってくるようにと、神は私たちを招いておられます。神が私たちと契約を結んでくださるから安心であり、イエス・キリストと一つになることを含むので親密なのです。

キリストにあって祝福される

靴下とズボンの違いについて考えてください。靴下を洗濯機に入れたらどうなるかご存知でしょうか?片方がなくなってしまいます。二つを繋いでおくものがないのが問題です。ズボンは違います。洗濯機に入れたズボンの片方がなくなって出てくることは一度も経験したことがありません。

神は、「赦しがいる人?永遠のいのちが欲しい人?」と言いながら、ばらばらな靴下のように、恵みを天から投げたりはしません。神は、イエス・キリストという一つの祝福を私たちに与えてくださいます。神は「キリストにあって…すべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」(エペソ 1:3)。神のすべての祝福は、イエスを通して私たちに与えられているのです。イエスとは別に届けられる祝福はありません。

赦しもイエスの中にあり、永遠の命もイエスの中にあり、聖さもイエスの中にあり、強さもイエスの中にあります。神は、イエスを私たちのための「知恵…義と聖と贖い」(1 コリント 1:30)としてくださいました。これらの賜物は、すべてイエスの中で分離することなく一体となっており、もしあなたがキリストの中うちにいるなら、これらすべての祝福があなたのものとなります。

キリストによって解放される

キリストのうちにあることは、あなたを罪との戦いのために備えます。かつては敗北する運命にある戦いでしたが、今では、キリストのうちにあるので、勝利を得る立場にあります。「罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです」(ローマ 6:14)。

戦場にいる自分を想像してください。あなたの所属する部隊が激しい銃撃を受け、あなたは捕虜となります。武器を手放したあなたは、大きな獄舎のようなところに連れていかれます。獄舎を担当している男は恐ろしい見た目をしています。彼が命令を発すると、中にいる人は命令された通りに動きます。死にたくないので、あなたも同じようにします。

それから一年間、あなたの生活はすべて獄舎の中で繰り広げられます。寝て、食べて、運動しますが、あなたは常に敵の支配下にいます。獄舎にいる限り、あなたには全く何もできません。

そんなある夜、エンジン音と銃声が聞こえてきます。隊長が総力を挙げてあなたを解放しにやって来たのです。隊長のジープに乗り込むと、彼はあなたに「これを持て」と拳銃を渡してくれます。「戦闘に復帰だ。」

次の日、獄舎を管理している男があなたを探してやって来ます。彼は命令を発しますが、あなたはもはや彼の言うとおりにする必要がありません。あなたは彼の獄舎の中にはいないのです。あなたは自由です。もし、あなたがキリストのうちにあるなら、あなたは全く新しい立場にいます。自由であり、戦える立場にいるということです。罪は常にあなたの敵のままでありますが、もはやあなたの主人ではありません。

「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません… むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい」(ローマ 6:12−13)。

キリストにある安心感

信仰をは、あなたをキリストのうちに置きます。そこにいれば、たとえあなたの心が恐れで満ちていても、あなたは完全に安全です。

私の友人は、初めて飛行機に乗ったときのことを話してくれました。

彼が飛行機に乗ったとき、三つ並ぶうちの真ん中の席に座わりました。窓際の席には、とても緊張した様子のおばあさんが座り、通路側には、旅慣れた様子のビジネスマンが座っていました。真ん中に座った友人は、旅行には乗り気だったのですが、初めての飛行機だったので、少し不安を感じていました。

飛行機が離陸するとき、ビジネスマンは新聞を開き、友人は座席の肘掛けにつかまり、おばあさんは、エチケット袋に手を伸ばしました。

昼食が出されると、ビジネスマンはたくさん食べ、友人は半分食べ、おばあさんは見ただけで手をつけませんでした。

結論はこうです:この三人の乗客は、三人とも同じ時間に同じ場所に到着したのです!旅の間に経験したことは全く違いますが、全員が同じように安全だったのです。

あなたの永遠の安全は、あなたがどれだけうまくクリスチャン生活を送るかにかかっているのではなく、あなたがキリストのうちにあることにかかっているのです。

開かれました

クリスチャンとは、キリストの死と復活においてキリストと一つになっている人のことです。信仰によってあなたがキリストと一つになると、それまでのあなたが存在しなくなり、新しい人が現れます。それでもなお、あなたは苦労することも多く、失敗もたくさんするでしょう。しかし、キリストがあなたを解放してくださったので、あなたは全く新しい立場にいます。

クリスチャンの生涯を送るうえでの最も重要なことは、キリストにある自分の新しい立場を発見することです。罪は変わらずあなたの敵のままでいますが、もはやあなたの主人ではありません。今では戦いを挑むことができる立場にあなたはいます。

次へ
これらの質問を使って、神の御言葉にさらに触れてみてください。他の人と話し合ったり、自分自身を探るための質問として使ってみてください。
  1. 神は、あなたとどのような関係を持ちたいと思っておられるでしょうか?
  2. 「すでに救われたので、自分の好きなように生きる」と言う人に、どう答えますか?
  3. 神の祝福がどのように私たちにもたらされるかについて、靴下とズボンの例えからどのようなことが分かりますか?あなた自身の言葉で説明してください。
  4. 次の言葉に応答してください:「罪はあなたの敵のままですが、もはやあなたの主人ではありません。」
  5. キリストにあってあなたは安全であると知ることは、あなたのクリスチャンとしての生き方にどのような影響があるでしょうか?
Save Progress
トップに戻る