エゼキエルは希望を打ち砕かれ、夢を粉砕された人でした。彼が別の時代に生きてさえいれば、別の場所にいたならば…〇〇でさえあれば!彼の置かれた状況はミニストリーへの道を妨げているようでした。そして、バビロンの近くの僻地で、混乱し、落胆した民の只中にエゼキエルは置かれたのでした。
あなたにもエゼキエルの気持ちが分かるでしょうか?強い期待と大きな夢を抱いていたのに、その頃らからは想像もできないような状況に今は置かれている人もいるでしょう。
二つの場所に置かれた神の民
エゼキエルの時代、神の民は二つの場所に分かれていました。一万人がバビロンのケバル川のほとりにいて、残りはゼデキヤ王がかろうじて権力にしがみついていたエルサレムにいました。
エゼキエルは捕囚の民に神の言葉を語るよう召されました。そして同じ時期に、エレミヤがエルサレムに残った民に神の言葉を語っていました。
家族は別れ別れになり、誰もがこれからどうなるのだろうかと考えていました。敵に包囲されたエルサレムの民は生き残るだろうか?捕囚の民はいつ戻ることができるだろうか?一ヶ月後?一年後?あるいはずっとこのままなのだろうか?
神の言葉を語っていると主張する者たちが、その答えを知っていると声を上げました。偽預言者たちは、起こったことは一時的な敗北に過ぎないと人々に保証したがっていました。「神が宮から去ってしまうことはあり得ません。捕囚の民はすぐに故郷に戻れるでしょう。エルサレムがどうして倒れたりするでしょう」
預言者エレミヤは別のメッセージを持っていて、それは良い知らせではありませんでした。捕囚の民へ送った手紙の中で、彼は10,000人の流浪の民に、70年が経たなければ神は彼らに戻ることを許されないだろうと書き記しました。つまり彼らは生涯、見知らぬ異国の地で過ごすことになります(エレミヤ29章)。彼らには励ましが必要でした。神はエゼキエルを通して、彼らを励ましました。
栄光が現れる
エゼキエルが見た神の栄光には、七つの要素がありました。
一つ目は、太陽の光を受けてきらめく水晶でできた台のようなものでした(エゼ 1:22)。その大空にも似た台は、それぞれの角が生き物によって支えられていました。その生き物は御使いでした(1:20)。生き物は翼で台を支えていましたが、一対以上の翼を持っていたので、空を飛ぶこともできました。巨大な台は、ヘリコプターのように垂直に上下することができました(1:19)。
それからエゼキエルは車輪を見ました:「生きもののそばには、地の上にそれぞれ輪が一つずつあった… ちょうど、輪の中に輪があるようであった」(1:15−16)。南北に向いた輪が、東西を向いた別の輪と交差する、そのような車輪を想像してください。この車輪は四方のいずれにも移動できます。狭いスペースに車を縦列駐車する必要がある場合に便利ですね。横モードに切り替えればすっと駐車できます。
この車輪のおかげで、巨大な台は自由に移動することができます。つまり、ここで私たちに語られていることは、神の臨在は固定されておらず、どこか一つの場所に限定されているわけではないということです。神は行きたい場所に自由に、どのような方向にも移動することができるのです。この地上に、神の手の届かないところに民が一人でも迷い込むことはあり得ません。
水晶の台、御使い、車輪の上には、「サファイアのように見える王座に似たもの」(1:26)がありました。「似たもの」という言葉に注目してください。エゼキエルは、自分が見たものを表現する言葉を探すのに苦労しているのです。高いところに目を向ければ向けるほど、表現するのがさらに難しくなっていきます。
そして、王座の上にエゼキエルが見たのは、「周りが琥珀のきらめきのように輝き、火のように見えた」(1:27)ものでした。そして、それと一緒に見ることを全く予期せぬものが現れました:「雨の日の雲の間にある虹」(1:28)のようなものです。エゼキエルは、神の裁きを表す火と稲妻、そしてそれと同時に神の恵みを表す虹を見たのです。その両方が王座から出てきていました。
エゼキエルは、この幻を目にしながら、さらに高いところへと視線を移していきました。生き物の上には、台がありました。その台の上には、「王座に似たもの」(1:26)が見えました。そして、その王座の上で、彼は輝く光に囲まれた「人間の姿に似た」栄光の人を見ました(1:26−27)。
望む場所から遠く離れていた時にエゼキエルが最も見る必要があったことは、神が王座におられ、神の臨在が彼と共にあるということでした。自分の望む場所から遠く離れているとき最も必要なのは、新たな視点から神の栄光を見ることです。
栄光が去る
しばらく後に、エゼキエルは、全く別の幻を見せられました。神殿で巨大な偶像を目にしたのです。また、神殿の壁を偶像が這い回る忌まわしい状況を目にしました(8:7−10)。卑猥な行いが密かに神殿の中でも行われていて、人々は「主は私たちを見ておられない」と言っていました(8:12)。
それからエゼキエルは、以前の幻で見たのと同じ主の栄光を見ました(8:2−4)。それはまるで神が偶像と戦おうと身構えているようでした。主は神殿を冒涜した偽りの礼拝を破壊する準備をしておられたのです。
エゼキエルが再び神の栄光の幻を見たとき、台、車輪、そして神の御座が扉に向かって移動していました。神は神殿と都から去ろうとしていました(エゼ 10:4、18; 11:22−23)。
空飛ぶ台に象徴される神の臨在がエルサレムを離れようとしていましたが、神はご自分の民を見捨て、約束を忘れたわけではありませんでした。神の贖いの働きの中心がエルサレムから離れて行きました。神は神殿から去って行きましたが、神の臨在は、今度はケバル川の側の捕囚の民の間で知られるようになったのです。エゼキエルは家からも神殿からも遠く離れていましたが、神の御心の只中にいました。
あなたは自分が望む場所にはいないかもしれませんが、神は理由があってあなたを今いる場所に置いておられます。そして、あなたをイエス・キリストに似た者にしていくという永遠に続く神の偉大なご計画は、あなたがどこにいようとも、素晴らしい方法で進められていくのです。
栄光の帰還
エゼキエルが最初の幻を見てから二十年後、神は再び彼に語られました。そのときエゼキエルが見たものは、彼の心に喜びをもたらしたに違いありません:「主の栄光が東向きの門を通って神殿に入って来た… なんと、主の栄光が神殿に満ちていた」(43:4−5)。いつの日か、神の栄光があらゆる部族や国の人々のための礼拝の中心となる神殿を満たすのです。
これはイエスの物語です
エゼキエルは「まさに主の栄光の姿のよう」(1:28)なものを見ました。ヘブル書には、イエスが「神の栄光の輝き」(ヘブル 1:3)であると記されています。その神の栄光が私たちの間に下りて来られました:「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ 1:14)。
このように考えてみてください:神はご自身の台座から下りてこらたのです!永遠の創造者、栄光の主が王座から下りてきてくださったのです。言葉では表現できないほどの栄光のお方が、虹と火と輝く光に囲まれたこのお方が、人間となられ、ベツレヘムでお生まれになったのです。御使いが支える王座に座しておられていたお方が、御使いに見おろされる中、飼い葉桶に寝かされたのです。
栄光の主は、台座から下りてこられただけでなく、神殿に来られ、御言葉を語りました。そして、下りてきてくださった栄光の主は、台座に乗ってではなく、十字架を担ぎながら神殿を去りました。
しかし、現れた後に去って行った栄光は、やがて帰ってきます。世界の歴史はその瞬間へと向かって進んでいます。栄光の主が、天から下りてこられる日を、私たちは期待して待ち望んでいます。私たちは、主にお会いし、主に似たものに変えられ、永遠に主と共に過ごすのです。
これはあなたの物語かもしれません
エゼキエルは人生の最盛期にある才能に恵まれた人でしたが、バビロンの辺境の奥地に置かれていました。彼の見通しは暗いように見え、将来に対する個人的な希望は打ち砕かれました。あなたも同じような経験をしたことがあるでしょうか?何か予期せぬことが起きて、「こんなはずではなかった!」と思ったことはあるでしょうか?あるいは、幸せだった状態から神があなたを引き出したような経験をしたことがあるでしょうか?
エゼキエルが見た空飛ぶ台は、神の臨在が一つの場所に限定されていないことを覚えさせてくれます。神があなたを今とは別の場所へと移動させたとしても、神はそこでもあなたと共にいてくださいます。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヘブル 13:5)と、神は言ってくださいます。この地球上で神が行くことのできない場所は存在しません。エゼキエルは、神の臨在なしにエルサレムにいるよりも、神と共にバビロンにいる方が良いことを発見しました!
開かれました
栄光に満ちた神の臨在が、イエス・キリストにあって私たちの間に下りてきました。栄光の主はご自身の神殿に来られましたが、人々はイエスを拒絶し、イエスは十字架を背負ってエルサレムを去って行かれました。栄光は現れ、栄光は去っていきましたが、感謝なことに、栄光は再び戻ってきます。イエス・キリストは死からよみがえられました。そして、いつの日か、力と栄光をもって戻ってきてくださいます。聖書の物語は、人類の歴史における大規模な亡命が終わり、神の民が神の臨在のもとに連れて行かれ、やがて永遠に神を楽しむようになる時を指し示しています。