イスラエル軍の戦いを四つ星の将軍に分析してもらったとしたなら、「どの戦いも軍事的に正しい要素は一切ない」と言うでしょう。神の民の装備が絶望的なほど貧弱で、兵士の数が圧倒的に少なくても、神はご自分の民に勝利を与えました。
例えば、要塞都市エリコに到着したとき、神はヨシュアに角笛を吹き鳴らしながら街を七周回るように言いました。神の民がその通りにしたとき、エリコの城壁は崩れ落ちました。間違いなく軍事史上最も珍しい勝利の一つでしょう!
また、士師記では、ミディアン人と戦うために32,000人の軍を集めたギデオンについて、神が教えておられます。人数が多すぎると神が言ったので、ギデオンはその数を三百に減らしました。彼らはたいまつと水がめと角笛だけで、敵の野営地に入っていきました。神がミディアン人の間で混乱を引き起こしたので、ミディアン人はパニックに陥って逃げました。
イスラエルの勝利は武力や権力によるものではなく、神の御霊の介入によるものでした。主は、彼らを勝利に導いたのは主であることを繰り返し明らかにされました。しかし、神の民は満足しませんでした。
信仰によって生きることに対する欲求不満
イスラエルの王は神でした。神は、王が民衆のためにすることはすべて、そしてそれ以上のこともしてくださっていました。しかし、神の民は、神だけに頼ることも、神が指導者を起こしてくださるのを待つのも嫌でした。生身の人間が自分たちを導くことができるような後継者制度を望んだのです。
やがてイスラエルの長老たちは、士師(さばきつかさ)であり預言者でもあったサムエルのもとにやって来て、王を任命するように頼みました(1 サムエル 8:5)。神はこの要求を喜ばれませんでした。主はサムエルに言われました、「彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだ」(1 サムエル 8:7)。人々が王を求めたのは、主に直接頼る信仰生活を拒否したからです。しかし、神は彼らの思う通りにさせました。
選択の重要性
神の民は浅はかな選択をしました。王を求める行為を神が喜んでおられないことも知っていましたし、そのことがもたらす結果についてサムエルから警告を受けていました:王は民の息子を戦争に送り出す。王は自分の畑や家の中で民を働かせる。王は民の娘たちに王の台所で仕えるように要求する。王は民の土地を取り上げる。王は民の作物と家畜の群れに課税する。「あなたがたが自分たちのために選んだ王のゆえに泣き叫んでも、その日、主はあなたがたに答えはしない」(8:18)。
サムエルはこれ以上ないほど強い警告をしましたが、神の民は聞こうとしませんでした。彼らは言いました、「いや、どうしても、私たちの上には王が必要です。そうすれば私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり[ます]」(8:19-20)。民の心は決まっていたので、神は彼らが求めるままに与えました。
浅はかな選択は、必ず痛みを伴います。しかし、神はすべてを治めておられる方なので、たとえどれほど間違った選択をしたとしても、そのことによって私たちが神の恵みから外れてしまうことは決してありません。私たちは皆、人生のある時点で間違った決断をし、後悔し続けながら生きることがあります。あなたもそのようなことを今実際に経験しているでしょうか。「もしもあの時…」と過去を振り返らざるを得ないような、仕事での行き詰まり、期待外れの結婚生活、あるいは衝動的な決定など。
しかし、そんなあなたに良い知らせがあります。神は私たちの間違った決断を贖うことができます。私たちを神の恵みの外に置くことのできる罪はありませんし、神の助けが届かない場所に置くことのできる決断もありません。
リーダーの資格
民が王を求めるようになることをあらかじめ知っておられた神は、申命記ですでに、民を導く者の条件を記していました。
第一に、王は神によって油注がれた者でなければなりません。「必ず、あなたの神、主が選ばれる者をあなたの上に王として立てなければならない」(申命記 17:15)。これと並行する新約聖書の箇所は使徒6章にあります。そのとき初めて執事が任命されますが、教会は聖霊に満たされた人を選ぶようにと言われています(使徒 6:3)。クリスチャンの指導者は、生活の中に神の臨在が現れている者でなければなりません。これが最も重要な資格です。
第二に、王は神の民に属していなければなりません。「同胞の中からあなたの上に王を立てなければならない。同胞でない異国人をあなたの上に立てることはできない」(申命記 17:15)。使徒6章でもやはり、仲間の中からリーダーを選ぶようにと使徒は信者たちに告げています(使徒 6:3)。神の民は地域教会で認められている者を求めるべきです。
第三に、王は信仰を実践しなければなりません。「王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない」(申命記 17:16)。王は信仰の模範となるべきです。他の国々は戦車や馬を信頼していましたが、神の民は彼らの神である主の御名を信頼する者でなければなりません(詩篇 20:7)。この資格もまた新約聖書に同様の記述があります。教会が最初の執事を任命したとき、彼らはステパノを選びました。彼が「信仰に満ちた人」だったからです(使徒 6:5)。神の民を指導する者は、いつでも生ける神を信頼する者でなければなりません。
第四に、王は忠実でなければなりません。「王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない」(申命記 17:17)。同じ原則が新約聖書にも反映されています:長老は「一人の妻の夫」でなければなりません(1 テモテ 3:2)。クリスチャンリーダーの神に対する忠実性は、妻への忠実性に反映されます。
第五に、王は貪欲であってはいけません。「自分のために銀や金を過剰に持ってはならない」(申命記 17:17)。神の民の指導者は、私腹を肥やすために自分の立場を利用してはいけません。彼は神と人々のしもべです。新約聖書の中でも、ペテロは牧者と長老たちに手紙を書いて、彼らが金に貪欲にならず、権威を乱用せず、熱心に奉仕するように勧めました(1 ペテロ 5:2−3)。
第六に、王は御言葉を学ぶ者でなければなりません。「その王国の王座に就いたら…自分のために、このみおしえを巻物に書き写し、自分の手もとに置き、一生の間これを読まなければならない。それは、王が自分の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばと、これらの掟を守り行うことを学ぶためである」(申命記 17:18-19)。つまり、王の最初の義務は、申命記全部を自分で写し、毎日それを読むことだったのです!同様に、執事は「きよい良心をもって、信仰の奥義を保っている」(1 テモテ 3:9)必要があります。神の民の指導者は御言葉を学び、御言葉を崇敬し、そして御言葉に従う人でなければなりません。
第七に、王は謙虚でなければなりません。「王の心が自分の同胞の上に高ぶることのないように」(申命記 17:20)。同様に、牧師や長老たちは「割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となる」(1 ペテロ 5:3)ことが求められています。
リーダーに対するこれらの条件は、牧師、長老、平信徒のリーダー、そして彼らの任命に関わるすべての人にとって非常に重要なことです。宣教の準備をしている学生や、神の御業が成し遂げられることを望んでいるすべての人にとっての条件でもあります。
あなたが神に用いられたいなら、神の御霊による油注ぎを求めてください。神の民に献身し、すべてのことにおいて神を信頼することを学びましょう。すべてのコミットメント、特に結婚生活において忠実であるようにしましょう。金銭の追求を祭壇の上に置き、神が与えてくださるものは何でも喜んで受け取ることを決意をしましょう。福音の中心となる真理についての確信を明確にし、神と謙虚に歩むために毎日神の御言葉で養われましょう。
全ての条件を満たしている者
旧約聖書の王の中でこれらの条件をすべて満たす者がいなかったことに驚きますか?
最初の王サウルは身勝手で、不従順でした。三番目の王ソロモンには、妻が七百人いました。そして、ソロモンが年をとると、その妻たちは彼の心を他の神々に向けました(1 列王記 11:4)。イスラエルの最良の王はダビデでしたが、彼でさえ、姦淫と殺人の罪を犯しました!イスラエルの王たちは誰一人として神の使命を果たすことができなかったのです。
神の民は、神の御心を成就する王を千年も待ちましたが、神はようやく敵から民を救い出してくれる生身の指導者を求める彼らの願いに応えてくださいました。王が誕生し、賢者たちは星を追いかけて「ユダヤ人の王」を礼拝しました(マタイ 2:2)。
イエスは、神が示した王の条件を完全に満たす方でした。
1. イエスは神によって油を注がれた者でした。イエスのバプテスマの時、神は「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と、告げました(マタイ 3:17)。
2. イエスはダビデの家系に生まれ、神の民に属していました。
3. イエスは信仰を実践されました。イエスはゲッセマネの園で「あなたのみこころがなりますように」(マタイ 26:42)と祈られ、苦しみの中で「正しくさばかれる」(1 ペテロ 2:23)御父にご自身を委ねられました。
4. イエスは忠実でした。サタンから誘惑を受けた時、キリストは敵とのどんな同盟の誘いも拒否しました(マタイ 4:1−11)。
5. イエスは貪欲ではありませんでした。キリストは弟子たちに、「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」と言われました(マルコ 10:45)。
6. イエスは御言葉を学ぶ者でした。神の言葉がイエスの心を満たしており、イエスの語る言葉を聞いた人々はその理解力に驚きました。
7. イエスは謙虚でした。「人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリピ 2:8)。
イエスは神が示した王の条件を満たすお方でしたが、人々が望んだ王ではありませんでした。
侮辱された謙虚な王
イエスが裁判にかけられたとき、ピラトはイエスに尋ねました:「あなたはユダヤ人の王なのか?」イエスはただ答えました、「あなたがそう言っています」(マタイ 27:11)。ピラトはその後、イエスを十字架につけるために引き渡し、そして人々に言いました、「見よ、おまえたちの王だ!」(ヨハネ 19:14)。
ローマの兵士たちは「イエスの着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、『ユダヤ人の王様、万歳』と言って、からかった」(マタイ 27:28−29)。
イエスを王としてからかう行為は続きました。彼の頭上には「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」(ヨハネ 19:19)と書かれた罪状書きが掲げられました。「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と叫んだ人もいました(ルカ 23:37)。また、「彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう」(マタイ 27:42)と叫んだ人もいました。
このあざだらけで、傷を負い、十字架につけられた王を通して、神の御心がついに成就されました。神はイエスを復活させ、すべての名にまさる名を与えられました(ピリピ 2:9)。イエスは「王の王、主の主」なのです(黙示録 19:16)。
あなたの信仰が、あなたを裏切ったリーダーによって打ち砕かれてしまったとしても、あなたには信頼できる王がいます。その名はイエスです。クリスチャンの信仰とは、クリスチャンの指導者を信頼することではありません。主イエス・キリストを信頼することであり、主を信頼する者は決して失望することがないのです(ローマ 10:11)。
開かれました
イエスは、神が指導者に求めるすべての条件を満たす王です。私たちの人生およびこの世界で神の御心が達成されるのは、この私たちの王を通してです。神は、指導者を志すすべての人に、王であるキリストに身を委ね、その模範に従うよう呼びかけておられます。