現代社会において、多くの人にとって「罪」とは、チョコレートを食べすぎるなど、完全に合法であり、自分の欲を満たすような事柄を表す言葉になっています。
35歳の夫であり父である男性が、日曜日の朝に自宅にいると想像してください。彼をボブと呼びましょう。ボブは日曜の朝刊を読み終え、長い間先延ばしにしてきた地下室の掃除に取り組むことにしました。箱の中身を整理していると、祖母が持っていた古い聖書を見つけます。そして、なぜかそれを捨ててはいけないという気がします。古くはありますが、多くのページに祖母の繊細な筆跡で手書きのメモが残されているのです。彼が聖書を開くと、最初に読んだのがこの節です:「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」(1 テモテ 1:15)。
ボブはこの言葉を少し奇妙に感じます。イエスは、自分を甘やかしすぎてしまう人々を救うために来られたのか!ボブはクリームパイが大好きです。身体に悪いことは知っていますが、適度に運動していますし、一般的に健康ですので、どうして救われる必要があるのだろうかと不思議に思います。彼はページをめくって、 神は罪を犯した人々に対して憤りを覚えていたことを読みます(ヘブル 3:10)。ボブには、このことが理解できません。なぜ、ボブが理解しているような罪に対して、神はお怒りになるのでしょうか?少しの喜びにふける人々に怒りを向ける神とは、いったいどんな神なのでしょうか?
そこでボブは聖書を閉じ、日曜の朝を家で過ごすことにしたのは正しい選択だったと安心します。妻と子供たちを愛していますし、なぜ祖母が聖書を素晴らしい本だと思って大切にしていたのかが分かりません。
罪は大したことではないと思わせるように、常に新たな解釈がされています。しかし、罪は決して無害な楽しみではありません。罪とは神に反抗する事であり、罪があなたの抱える最大の問題であると理解したとき、イエスの必要性を発見することになります。
敬虔であることの重要性
罪には破壊的な力があります。それは人生、家族、また教会を破滅へと導く可能性があります。第2列王記17章には、それが一国をどのように破滅させたかが記されています。ソロモンの死後、北の十部族は、南の二部族からの独立を宣言し、神がダビデの血筋に約束した祝福から離脱しました。北の王国には十九人の王が君臨しましたが、彼らは一人残らず主の目に悪であることを行いました。約二百年後、神は北の王国を敵の手に渡しました。民は国外に追放され、地域全体が荒れ地のようになりました。
北の十部族の最初の王は、民が神を礼拝するために決してエルサレムに行かせないようにしようと決心しました。そこでダンとベテルで自分の宗教を作り上げ、そこに二頭の金の子牛を据えました。
人が作ったこの宗教によって、この国は、金持ちが裕福に暮らす一方で、貧しい人が完全に無視されるという文化を持つ国となりました。通りは暴力であふれ、民は、望まないで生まれた子どもを火で焼くという忌まわしい慣行に染まっていきました。
しかし、神が民に対して最初に告発した罪は、暴力、殺人、貪欲、さらには子どもへの残虐でさえありませんでした。神がまず非難したのは、民が他の神々を礼拝していたことでした(2 列王 17:7)。
十戒の最初の四つの戒めはすべて神ご自身に関するものです:「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない… あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない… 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」(出エジ 20:3−8)。私たちにまず求められていることは、神を中心とした生活です。
聖書はこれを「敬虔」と呼び(例:1 テモテ 4:7)、その重要性は、イエスの教えによって確認できます。最も重要な戒めについて尋ねられたとき、イエスは答えられました:「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(マタイ 22:36−37)。
敬虔は義をもたらす
最初の四つの戒めで敬虔さを私たちに求めた後、神は私たちと他者との関係において義を求めておられます:「あなたの父と母を敬え… 殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない… 偽りの証言をしてはならない。あなたの隣人の家を欲してはならない」(出エジ 20:12−17)。
神は、私たちと他者との関係に神の愛を反映するようにと、私たちに求めておられます。キリストが、最も大切な第二の戒めを語られたことから、このことが確認できます:「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ 22:39)。
義は敬虔という土台の上に築かれるので、人が神を拒否するとき、義は彼らの手をすり抜けて掴むことができないのです。国家が生きている神に背を向けたとき、道徳的な混乱に陥り、罪と悪が解き放たれます。
北の王国では、民が神を拒否したときに罪が生じ、子を火の中に投げ入れる事態に至りました。彼らが聖書の説く道徳を失ったのは、聖書の神を拒否したからです。敬虔なしで、義が存在することはありえません。
神のない人生
日曜の朝に地下室を片付けているボブは、家族が義の恩恵を享受することを望んでいます。彼は結婚生活が順調に進み、仕事の相手が正直で、約束を守ってくれることを望んでいます。彼は公務員が嘘をつかないことを期待し、彼の子どもたちが安全であることを望んでいます。
ボブは義がもたらすあらゆる恩恵を望んでいますが、神は望んでいません。それが彼の最初で最大の罪です。ボブは敬虔ではありません。彼は成功を手に入れた家庭的な男性です。彼自身と家族にとってできる限りのよいことを求めていますが、彼の人生には、神のための場所がありません。
私たちは本能的に、神を愛することではなく、神を不快に思うことを選びます。神の力は私たちの自由を脅かしているように見え、神の聖さは私たちのプライドを傷つけます。神が私たちの心を変えてくださらない限り、私たちは常に神を不快に思います。罪深い心は神に対して敵対的です(ローマ 8:7)。
神の怒りを引き起こす
しかし、神は非常に忍耐強い方です。 二百年に及び、神は裁きを控え、預言者たちを送って、敬虔さと義を取り戻すようにと民に呼びかけましたが、彼らは耳を傾けませんでした(2 列王 17:14)。代わりに、民は「悪事を行って主の怒りを引き起こした」(17:11)のです。
「引き起こした」という言葉に注目してください。怒りは神の本質に含まれていません。神は常に聖なる方であり、常に愛ですが、常に怒っているわけではありません。古代の神々は本質的に憤っており、常に怒りがくすぶっていて、常になだめる必要がありました。彼らをなだめるために捧げ物が与えられましたが、その怒りが治まることはありませんでした。怒りが使い果たされることはなく、一時的に制御することしかでなかったのです。しかし、聖書の神は全く異なっています:「主は…怒るのに遅く、恵み豊かである」(詩篇 103:8)。
神の本質に怒りはありませんが、神の怒りを引き起こすことはできます。このことについて、私たちは感謝しなければなりません。誰かが虐待されているのを見ながら、ぼんやりと立っているだけの人を賞賛することはあり得ません。ですから、子どもを火の中に入れたときに無関心な神をどうしたら礼拝できますか?
怒りが引き起こされたとき、神が何をなさるかに注目してください:「そのため主はイスラエルに対して激しく怒り、彼らを御前から除かれた」(2 列王 17:18)。これは、約束の地から追い出したことを意味します。
聖書の物語の最後で、これまでに生きたすべての人が神の御前に立ち、不敬虔な人と不義な人は神の御前から追放されると、聖書は説いています。神の祝福から永遠に除外される。つまり、地獄に追いやられるのです。
神の憐れみの働き
神がその御前から民を排除されたとき、神が祝福すると約束された地は荒れ果てた無人の地となりました。しかし、アッシリアの王は、彼の帝国のあらゆる所から人々を連れてきて、そこに定住させました(2 列王 17:24)。
これらの移民が到着したとき、彼らは予期しない問題に直面しました。何人かがライオンに襲われたのです。この問題がアッシリアの王の耳に届いたとき、国王はこの状況に対処する最善の方法は、そこに以前住んでいた人々の中から祭司を見つけることだと考えました。もともとそこに住んでいた祭司なら、この問題を引き起こしているその土地の神をなだめるために何をすべきか知っているだろうと考えたのです。そこで、アッシリアの王はユダヤ人の祭司をイスラエルに送り返すように命じ、「サマリアから捕らえ移された祭司の一人が来てベテルに住み、どのようにして主を礼拝するべきかを教えた」(17:28)のです。
ここでは、神の憐れみが働いています。神は祝福すると約束された地に、東西南北から人々を連れて来られ、神の祭司を一人送り込み、彼らが神を知るようにされました。
あらゆる国からやってきた人々が真理を知るようになりました。しかし、彼らは自分たちの神々を礼拝することも続けたので、やがて彼らは混乱しました(17:29)。この人々は後にサマリア人として知られるようになります。
イエスがサマリアを通過したとき(ヨハネ 4:4)、不敬虔で、不義な一人の女性に出会いました。イエスは神が彼女の罪に怒っていると告げることから始めることはしませんでした。彼女を神との正しい関係に導くことから始めたのです。「御霊と真理によって父を礼拝する」人を神が求めておられるのだと、イエスは彼女に言われました(4:23)。
敬虔が義の土台であるため、神を知らず、神を愛していない人に義について話すことにはほとんど意味がありません。イエスは、サマリア人の女性に神を知ることについて話すことから始めました。なぜなら、そこから永続する変化が始まるからです。
キリストは私たちの不敬虔さと不義の両方に対処するために死なれました。十字架上で、父なる神は、御子が不敬虔な人生を送ったかのように、そしてあらゆる種類の不義を犯したかのように扱われました。御父は御子に背を向け、御子を神の御前から締め出されました。だからこそ、イエスは叫んだのです:「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイ 27:46)。
キリストは「一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは…あなたがたを神に導くためでした」(1 ペテロ 3:18)。信仰と悔い改めによってイエスのもとに来るなら、イエスはあなたを敬虔な人生へと導いてくださいます。そして、それが、義に向かって成長していく始まりとなります。
開かれました
神は私たちが敬虔で、義であることを求めておられます。私たちが心から神を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛することが求められています。神についての知識を失ったとき、道徳は維持できません。しかし、私たちがイエス・キリストのもとに来るならば、イエスは私たちを父なる神と和解させ、義の道へと私たちを導いてくださいます。