神がその御名を据えた都市はくすぶる廃墟となり、信仰者のコミュニティがかつて礼拝で声を上げた場所は、沈黙が支配する所となりました。かつて神の臨在の雲で満たされた神殿も完全に破壊されていました。
しかし、バビロニア帝国はメディアとペルシア帝国の台頭に道を譲りました。その中、新しい王キュロスは、エルサレムに戻り神殿を再建したいと思うユダヤ人の捕囚民は誰でも自由に帰還してよいという布告を出しました。約五万人がその挑戦に応えました(エズ 2:64−67)。
神の都の再建
大きな仕事に対して小さなグループでしたが、彼らは神殿を再建し、神の都で新しいコミュニティを形成するというビジョンに燃え上がりました。
彼らのリーダーはゼルバベルという名の建築家で、家屋の建築を監督することが最初の仕事でした。民の先祖が約束の地に着いたとき、神は彼らが建てなかった家と彼らが植えなかったブドウ園を彼らに与えました。しかし、捕囚民が戻った時は、すべての木材を鋸で自分たちでひき、すべての釘を自分たちで打たなければなりませんでした。家を建てた後、民は神殿を再建する仕事にとりかかりました(エズラ3章)。
それから神はエズラという名の聖書学者を起こされました。「彼はイスラエルの神、主がお与になったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、主の御手が彼の上にあった…」(エズ 7:6)。エズラがエルサレムに着くと、彼は茫然として座りこみ、その日の終わりまで一言も口を利けない状態でとどまりました(エズ 9:2−4)。神の都にいる神の民が神のことばについてこれほど無知であることが信じられなかったのです。
しばらくして、神はネヘミアという名の有能な計画立案者であり、組織運営者である人物を起こされました。彼がエルサレムに着いたとき、都市に防御の術がないことを目にしました。そこで、神は城壁再建への思いを、彼の心に起こされました。
エルサレム再建の物語は、神がどのようにして様々な賜物を持った人々を集めて仕事を成し遂げていくかの素晴らしい例です。神は建築家、聖書学者、計画立案者を用い、皆が一つになったとき、民は素晴らしいことを成し遂げたのです。
聖書を出せ!
エズラは、主を知っていると思っていながら、御言葉をほとんど知らない民に聖書を教えるという困難な課題に直面しました。世俗的な文化で生涯を過ごしてきたこの人々を、どのようにすれば主を愛し、主に従い、主を礼拝するコミュニティへと育てることができるのでしょう?
エズラの戦略は、民全員(約五万人)を公共広場に集めることでした。集まりながら彼らは、「主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに言った」(ネヘ 8:1)。
五万人の群衆がどのように要求を伝えることができるでしょう?大声で繰り返し唱えるのです!この群衆は、神の御言葉への大きな渇望を感じながら集合し、物事が始まるのを待ち切れなくなり、叫び始めました:「聖書が聞きたい!聖書を出せ!」聖書を出し、このおびただしい群衆に神の言葉を教えることは、エズラにとって大きな喜びだったに違いありません。
祭司エズラは会衆の前に律法の書を持ち出しました。会衆とは、「男、女、および、聞いて理解できる人たちすべて」で構成されていました(8:2)。つまり、子どももそこにいたのです。大人が神を礼拝し、御言葉を真剣に受け止めているのを見ることのできる環境に子どもを連れ込むことには、大きな影響力があります。
大いなる期待
会衆は期待しながら舞台を見上げ、エズラが聖書を開いたとき、人々は立ち上がりました(8:5)。それから、「エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな両手を上げながら『アーメン、アーメン』と答え、ひざまずき、顔を地に伏せて主を礼拝した」(8:6)のです。
神がモーセに御言葉を与えてから千年が経っていましたが、聖書が開かれ説明されたとき、神がその瞬間彼らに直接語られていることを民は理解しました。聖書の言葉が語られるのを聞きながら、彼らは人間の言葉を聞いているのではなく、神の言葉を聞いていることを認識していました。
エズラは神から新しい言葉を聞くためにシナイ山まで出かけていないことに注目してください。エズラは御言葉が開かれるとき、神の声を聞くことができると信じ、千年前に書かれた律法の書を開いたのです。
意味を明確にする
エズラの説教は、聖書の言葉から始まりました。すでに与えられていたメッセージを説明したのです。神はご自身の御言葉を祝福すると約束されました(イザ 55:11)。ですから、説教者の仕事は、彼が語る言葉を神の言葉で満たして、民が祝福されるようにすることです。
エズラは、この働きにおいてレビ人に支援されました:「彼らが神のみおしえの書を読み、その意味を明快に示したので、民は読まれたことを理解した」(ネヘ 8:8)。レビ人は群衆の中に散らばっていたようです。エズラが律法の書の一部を読み、その意味を説明しました。すると、レビ人は周囲の人々を小さな家族単位のグループに集めて、読まれたところが理解できたか尋ねました。全員が理解し、準備が整ったとき、エズラは次の箇所を読みました(8:7−8)。
エズラの説教と、人々が質問したり神の言葉を適用したりする機会が持てるスモールグループの設定との間には直接の繋がりがありました。聖書を読み、説き明かし、適用することは、民の信仰を築き上げていくためにエズラがとった主要な戦略でした。
神の喜び
エズラが神の律法を読んだとき、民は、神が求められている状態からどれほど遠いかを知って、嘆き、涙を流しました。そこで、エズラ、ネヘミヤ、そしてレビ人は民に言いました、「『今日は、あなたがたの神、主にとって聖なる日である。悲しんではならない。泣いてはならない。』民が律法の言葉を聞いたときに、みな泣いていたからである」(8:9)。
神の言葉を開くとき、今まで見えていなかったあなたの罪を発見することになります。そして、神の心を悲しませることは、あなたの心も悲しませるようになります。神の言葉は両刃の剣よりも鋭いものであり、刺し貫き、裂き、痛めます(ヘブル 4:12)。
神の言葉は罪を明らかにしますが、決してあなたをそこに置き去りにすることは神の目的ではありません。罪の確信は、常に目的へと至る手段なのです。最終目的は、私たちが神の恵みをより深く感謝することです。だから、ネヘミヤは次のように言ったのです:「今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ」(ネヘ 8:10)。
私たちの強さは、私たち自身にではなく、神の喜びにあることに注目してください。神はご自身において最高の喜びを見出すのです。神は、「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主」(1 テモテ 6:15)です。
不幸な神との交わりに喜びはないでしょう。もし、神が絶えずあなたを悲しい目で見ていると思うなら、あなたは神との交わりに引き寄せられることはないでしょう。誰が不幸な人と共に歩きたいと思うでしょうか?
もし、神が絶えずあなたを悲しい目で見ていると思うなら、神が近づいてくる度にあなたは身を隠します。しかし、神が祝福に満ちておられ、ご自身において最高の喜びを見出す存在だと分かれば、あなたは神と共に歩きたいと思うようになるでしょう。そして、神の喜びがますますあなたの内にあるようになります。
従順の喜び
二日目に、各家族の長が集まりました。聖書が再び読まれ、「彼らは、主がモーセを通して命じた律法に次のように書かれているのを見出した。すなわち、『イスラエルの子らは第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない』」(ネヘ 8:14)。
この祭りでは、各家族が木の枝で一時的な住まいを作り、七日間そこに住みます。この祭りは、神がどのように彼らの先祖を砂漠で守ったかを民に思い出させました。また、この世界のすべてが一時的なものであり、アブラハムのように、人々は聖なる都を探し求めているのだということを思い出させました。
私は、民の応答の素早さに喜びを覚えます。彼らは神の言葉を聞いて、それに従いました: 「そこで、民は…それぞれ自分の家の屋根の上や庭の中、また神の宮の庭…に、自分たちのために仮庵を作った」(8:16)。
御言葉に対する彼らの従順は、伝染しました!コミュニティ全体が仮庵を作り、そこに住み、「それは、非常に大きな喜びであった」(8:17)とあります。神に従うなら、大きな喜びがあなたのものになるのです。
御言葉は、罪の中にある私たちを常に謙虚にし、神の恵みとあわれみを見ることができるように私たちを引き上げ、大きな喜びを見出すことのできる従順な歩みへと導きます。
ネヘミヤの時代から約五百年後、イエスは仮庵の祭りを祝うためにエルサレムに来ました(ヨハネ 7:2)。そして、「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい』」(ヨハネ 7:37)。
渇いているということは、求めていながら、平安、満足、喜びを得ることができていないということです。イエスの招待はあなたのためのものです。イエスは自分自身を泉だと言い、「わたしのもとに来て飲みなさい」と言います。信仰とは決して枯れることのない泉から飲むようなものです。それは、キリストと彼が与えるすべてのものを受け取る手段なのです。
開かれました
御言葉には、人の人生を変え、コミュニティ全体を再構築する力があります。神の言葉が教えられるとき、神の声が聞かれます。聖書を読み、適用することで、私たちの罪と、神の恵みが明らかになります。それが悔い改めと従順につながったとき、あなたは大きな喜びを経験することになります。