もっとも辛辣な神の敵を、もっとも親密な友に変えてしまうことが、神には可能です。最も頑なな心でも変えることができるのです。教会の最大の敵が、代表的な使徒になったという物語に、そのことを見ることができます。
タルソ人のサウロは、クリスチャンを滅ぼすことを使命だと信じ、そうすることで神に奉仕していると信じていました(使徒 9:1−2)。「ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』」(使徒 9:3−4)。
サウロはまばゆい光を見て、実際に声を聞きました。これは、心の中で起こった出来事ではありません。サウロと共に旅をしていた人も、その声を聞きました。まばゆい光も、幻覚ではありません。網膜がやられて、彼は目が見えなくなりました。
「このようなことは絶対自分には起こりえない」と、あなたは思うかもしれません。それでも、パウロは次のように語ります:「しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を…先例にするためでした」(1 テモテ 1:16)。ダマスコへの道でのパウロの経験は、どのような意味で私たちの先例、モデル、あるいはパターンとなるのでしょうか?
クリスチャンになるには、実際に声を聞き、天の光で目が見えなくならなければならないとパウロが言っているわけではないのは、明らかです。しかし、タルソ人サウロの回心は、私たちが真正のクリスチャンになるために、起こらなければならないことを示す雛形です。
イエス・キリストについて本当のことを知る
サウロはイエスについて非常に多くのことを知っていました。サウロは非常に優秀な学者であり、イエスに従っている者たちに注目していました。イエスが約束された救い主で、死からよみがえったと、クリスチャンたちが主張していることを知っていました。
しかし、自分の回心を振り返って、彼はこう語っています:「信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました」(1 テモテ 1:13)。サウロは、クリスチャンが何を信じていて、どのように生きているかを知っていました。しかし、彼らが礼拝する救い主を知らなかったのです。ところが、サウロがまばゆい光に包まれ、神の御子が「サウロ、サウロ…」(使徒 9:4)と、名前を呼んで自分に語りかける声を聞いたとき、すべてが変わりました。
「これらすべては、私には非常に遠い出来事に思える。私はダマスコ途上のような経験をしたことがない」と思っているでしょうか。しかし、いつの日か、あなたはサウロと同じようにイエス・キリストをはっきりと目にすることになります。彼に起きたことは、あなたにも起こります。あなたはイエスの声を聞き、イエスがあなたの名を呼んでくださいます。
キリスト教とは、議論すべき信念や、検討するべき生き方だと思うかもしれません。しかし、パウロは言います、「私が見逃していたのは、これだ!」重要なのは、対象が人だということです。それもただの人ではなく、特別の栄光に満ちたお方です。すなわち、どんな人の人生にも関わりを持っておられる主権者イエス・キリストです。そのイエスがどのような方かを知ることで、すべてが変わります。
自分について本当のことを知る
それからサウロは「主よ、あなたはどなたですか?」と聞きました。答えは:「わたしは…イエスである」(使徒 9:5)でした。サウロは、システムや信念、宗教運動と戦っていると思っていましたが、恐ろしいことに、彼は神の御子に敵対していたのです。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9:5)。サウロはクリスチャンを迫害していましたが、イエスは「なぜわたしを迫害するのか?」(9:4;26:14)と、サウロに問われました。私たちが犯した罪はすべて、イエス・キリストに対する個人的な攻撃なのです。誰かを傷つけたとき、私たちはイエスを傷つけているのです。誰かを悲しませたとき、私たちはイエスを悲しませているのです。誰かを虐待するとき、私たちは、イエスを虐待しているのです。
突然、サウロは、自分に対する見方が180度変わりました。彼は、天国へ向かっている道を歩んでいると思っていましたが、実は、地獄へ向かっている道を歩んでいたのだと気付きました。彼は、全宇宙を支配しておられる主に対して罪を犯していたのです。自分は正しい人で、神が豊かに報いてくださると思っていましたが、実際は、罪人で、神の憐れみにすがるしかないと彼は気付いたのです。
サウロは長年にわたって、自分は良い人間だと自分に言い聞かせていました。自分は「非難されるところがない者」(ピリピ 3:6)だと思っていました。しかし、他人や神への恨みと怒りに満ちた自分の本当の姿に気づいて、彼は変わり始めました。
イエス・キリストを知るようになったとき、自分に対する見方が変わってきます。威張った態度はなくなり、謙遜な思いが生まれます。
止め方が分からないとき
主イエス・キリストに服従することは、平安を得ることに繋がります。キリストはサウロに言いました、「とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い」(使徒 26:14)。とげの付いた棒とは、先をとがらせた棒で、羊飼いが頑固な羊をつつくのに使っていた道具です。
槍のような金属の釘が地上から60センチくらいのところに水平に並んでいるところを想像してください。ある男があなたの側にやって来ます。彼は怒っていて、ありったけの力で釘を蹴ります。釘は靴のつま先を貫通し、男は痛みで後ずさりします。
しかし、痛みのせいでさらに怒りがこみ上げてきて、もう一度蹴りつけます。今度は、釘はさらに深く靴に突き刺さり、足からは血がだらだらと流れ落ちます。しかし、男は止めることができません。足がぐちゃぐちゃになるまで、何度も蹴りつけている男に、あなたはたじろいでしまいます。
「サウロ、サウロ…とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。」釘を蹴っても、釘を傷つけることはできません。あなた自身が怪我をするだけです。やればやるほど、あなたの怪我はひどくなります。
あなたは今、釘を蹴り続けていますか?自分を傷つけたことを何度も繰り返していませんか?内面の抑えがたい衝動に駆られて、あなた自身が傷つくことをやり続け、止められなくなっていませんか?
止める方法は一つだけです。主イエス・キリストに全面的に身を委ねることです。「主よ、私はどうしたらよいでしょうか?」(使徒 22:10)。自分をイエスに明け渡して委ねれば、あなたは大いに安心できます。
「あわれみを受けました」とサウロは語っています(1 テモテ 1:13)。金属の釘がイエスの手と足に打ち込まれたのは、あなたがあわれみを受けるためです。とがった釘を蹴るだけで終わらないようにするためです。
神は人を通して働かれる
サウロは目が見えなくなり、地面に倒れていました。しかし、イエスは彼に言われました、「立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる」(使徒 9:6)。
あなたが罪人で、あなたにとっての唯一の希望は、自分自身をイエスのあわれみに委ねることであると、イエスがあなたに教えるとき、イエスの目的は、あなたを地面に伏したままにしておくことではありません。イエスは、あなたを立ち上がらせ、この世でのイエスの目的を成し遂げるために、あなたを派遣されます。
サウロはダマスコに入り、三日間断食と祈りに徹しました(使徒 9:9、11):主よ、私をあわれんでください。主よ、私がすべきことを教えてください。サウロの祈りに対する答えは、アナニアという人を通して与えられました。
よみがえられた主との直接の出会いを通してサウロはキリストを知るようになりました。神が、彼の心にあった誇りや偏見を打ち砕いてくださいました。誰も彼に福音を伝えていませんでした。他のだれもサウロの回心に関わってはいません。
しかし、サウロが「主よ、私はどうしたらよいでしょうか?」と尋ねると、主は言われました:「立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる」。まるで主が彼にこう告げているかのようです:「あなたの人生に私が直接介入することで、私が誰であるかにあなたは気付くことができた。しかし、これは通常のやり方ではない」。神は資力を用いられます。神の通常の働き方は、民を通してなのです。
「さて、ダマスコにアナニアという名の弟子がいた」(使徒 9:10)。主は幻の中でアナニアに話しかけました。そして、サウロが祈っている家に行くようにと告げました。アナニアは行きたくありませんでしたが、アナニアを責めることはできないでしょう。三日前まで、喜んで自分を殺しただろう男のために祈るようにと神はアナニアに要求されたのです。「主よ、私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました」(使徒 9:13)。しかし、主はアナニアに言われました、「行きなさい…」(使徒 9:15)。そして、感謝なことに、彼は行きました!
新しい信仰者を助ける
サウロは目が見えないまま、三日間、暗闇の中で座っていました。サウロがクリスチャンを迫害してきたのは、ひとえに神は報復の神だと確信していたからです。そして今、自分こそ神の報復を受けるべき存在だと気付いたのです。
サウロは、イエスの弟子たちを殺してきましたが、今度は、イエスの弟子の一人がやってきて、目が見えなくなった彼の頭の上に手を置いています。恐怖の瞬間だったに違いありません:私をどうするつもりだろうか?しかし、サウロが耳にした最初の言葉は、「兄弟サウロ…」(使徒 9:17)でした。サウロ、私の兄弟!と、アナニアはサウロを愛と赦しと思いやりで、包みました。
誰かがイエスを信じる信仰を告白したとき、私たちが最初にすべきことは、その人を愛で包むことです。そして、その人が福音にしっかりと立つように助けます。これこそ、アナニアがサウロにしたことです。
神からの裁きの印として、サウロの目は見えなくなりました。そして、視力が回復するようにとアナニアが祈ってくれたとき、神の裁きが取り去られたというしるしだと、サウロは分かりました。キリストがサウロにあわれみを示したことを保証し、神との全く新しい関係に入れられたことを示すものでした。
アナニアはサウロを伝道の任務につかせました。私たちにとっては、サウロよりも使徒パウロと言った方が分かりやすいでしょう。あなたは、「わたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です」(使徒 9:15)。
誰かが回心したとき、私たちはその人をキリストにある兄弟姉妹として迎え入れなければなりません。それから、福音が彼らの心に根付くようにしっかりと教えます。そして、神が彼らに託している使命を見つける手助けをします。キリストはこの宣教の働きを用いて、部外者を仲間に変え、敵を友に変えられるのです。
サウロが、キリストの必要性に目を開かれたとき、出会った最初のクリスチャンは、彼のことを愛し、赦し、彼のために祈ってくれました。そして、洗礼を授け、食事を与え、導き、ミニストリーの準備を調えてくれました。神は、人を通して働かれます。パウロが祈ったとき、神はアナニアを通して答えられました。
神が人を通して働かれるという原則は、宣教活動や教会の使命の土台です。神は、人に介入してもらわなくても、人の人生を変えることができます。しかし、神は、人を通して働く道を選ばれました。「私たちは神のために働く同労者…です」(1 コリント 3:9)。
開かれました
イエス・キリストは、たとえ公然と敵対していた人であっても、どんな人の人生も変えることができます。私たちには神のあわれみが必要だということに気付き、自分自身をキリストに委ねる回心の時から、この変化は始まります。これは神の御業です。あなたが回心してクリスチャンになったとき、神には、あなたに託したい仕事があります。あなたが、地域教会に身を置き、献身するとき、周りの信徒たちが、その仕事が何かを見つける手助けをしてくれるでしょう。