キリストの生涯から五つの出来事
ヨハネの福音書20章24−31節
20こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。21イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。22こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」24十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
26八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
30イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。31これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。
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セッション2:五つの出来事
福音書
第1回目のセッションでは、旧約聖書に登場する五人の人物を取り上げました。彼らは皆、イエス・キリストという一人の人物を指し示していました。聖書の物語は、すべてイエス・キリストについて語っているのです。
イエスの物語は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書に書き記されています。この第2回目のセッションでは、イエスの人生における五つの出来事を見ていきます。イエスは生まれ、誘惑され、十字架につけられ、よみがえり、昇天されました。まずは、イエスの誕生から始めましょう。
1. イエスの誕生
イエスがこれまでのどの人間とも違う存在であることを示す最初の証拠が、イエスの誕生でした。
その経緯は次のとおりです:マリアは、ヨセフという男性との結婚を控えた若い女性でした。神は、彼女に現れた御使いを通して、言われました、
「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」(ルカ 1:30−31)
マリアは処女だったので、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう?」(1:34)と尋ねました。御使いの答えは、聖書の中で最も素晴らしい神秘の核心に迫ります。
「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカ 1:35)
この節は、私たちがイエスについて知っておくべき三つのことを教えています:イエスは神であり、イエスは人であり、イエスは聖なる方であるということです。
イエスは神である
「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカ 1:35)
マリアの子どもは、神の直接の働きかけによって生まれました。ヨセフは何の貢献もしていません。
マリアは処女でした。彼女の胎内の命は、神の創造的な奇跡によって造られたのです。神は、人類の中から救い主が現れるのを待っていたのではありませんでした。神が人のもとへ来られたのです。神はマリアから肉を得て、人となられたのです。
あなたの人生は、あなたが母親の胎内に宿った時に始まりました。その瞬間まであなたは存在していませんでした。しかし、イエスの場合は違います。イエスのいのちは、マリアの胎内で始まったのではありませんでした。馬小屋で生まれる前に、イエスは天で神のいのちを分かち合っておられました(ヨハネ 1:1)。
御使いはマリアに、「その子はいと高き方の子と呼ばれる」、そして「神の子」であると告げました(ルカ 1:32、35)。別の機会に、ヨセフに現れたときには、その子は「インマヌエル(『私たちとともにおられる神』という意味)」であると告げられました(マタイ 1:23)。神は赤子として私たちの世界に来られ、馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされました。
イエスは人である
「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカ 1:35)
私たちは、神がどのようにして人間の肉を取って赤子として誕生できたのかを理解することはできませんが、新約聖書の中心的な主張は、神が人になったということです。
この奇跡は計り知れない謎ですが、これによって聖書がイエスについて語る他のすべてのことを理解することができます。他の全てのことは、この一つの奇跡を中心に展開しています。もし神がイエスとして人となられたのなら、彼の主張、奇跡、そして復活は驚くことではありません。
イエスは、神と一体であり、私たちと一体であるので、他の誰にもできないことができる資格を持っておられます。神だけが、私たちをご自身と和解させることができます。人の子(人となられたイエス)だけが、神が私たち人間に要求されていることをすべて満たすことができるのです。
神が人となられたことは、神の奥義ですが、それによって他のすべてのことの説明がつくようになります。
「わたしたちは夏の真昼に太陽が空にあると信じているが、それは、太陽をはっきりとみることができるからではなく…他のすべてのものを見ることができるからである。」C. S. ルイス
イエスは聖なる方である
「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカ 1:35)
イエスは聖なる方です。これは、イエスがただの一度も、いかなる時も罪を犯さなかったことを意味します。イエスは、その考えにおいても、意志においても、品性においても、言葉においても、聖なる方でした。これまで存在した他のどんな人にも、当てはまらないことです。
イエスが聖なる方であることは、私たちに全く新しい希望の世界を開きます。聖い人間が存在するのです。神が私たち全員に求めるすべてのものを備えている人が存在するのです。この方は、私たちへの神の贈り物であり、この方のうちに、私たち全員の希望があるのです。
- 誕生
- 誘惑 (30年)
- 十字架 (3年)
- 復活 (3日)
- 昇天 (40日)
イエスは生まれた後、「神と人にいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった」(ルカ 2:52)と聖書に記されています。
それから、イエスは30歳で公のミニストリーを始められました。イエスはヨルダン川でバプテスマを受け、神の栄光のために生きようとする人々と完全に同じ立場に立たれました。
聖霊がイエスの上に下り、天から声があり、こう告げました、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」(マタイ 3:17)。そして、聖霊に満たされたイエスは、砂漠に行き、誘惑を受けました。
2. 誘惑を受けたイエス
マタイは、イエスが聖霊に導かれて荒野に行き、悪魔の誘惑を受けたと記録しています(マタイ 4:1)。
イエスはサタンの働きを滅ぼすためにこの世に来られました。そして、イエスのミニストリーの第一歩は、敵に立ち向かい、アダムが失敗したことにおいて勝利することでした。
戦略その1 – 混乱を引き起こす
エデンの園でのサタンの最初の戦略は、混乱を引き起こすことでした。彼はエバに「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか」と尋ねました(創世記 3:1)。
敵は同じ戦略をイエスにも試みました。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」(マタイ 4:3)。
敵はイエスの心の中に、ご自身が誰であるかについて、混乱をもたらそうとしたのです。しかし、自分が神の子であり、今もそうであることを知っていたため、奇跡を起こして、それを立証する必要はありませんでした。
イエスは答えられました、
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」 (マタイ 4:4)
戦略その2 – 憶測を助長する
エデンの園でのサタンの第2の戦略は、憶測を助長することでした。サタンはエバに、神の命令に背いても何の結果も生じないと、信じ込ませようとしました。「あなたがたは決して死にません」(創世記 3:4)。
敵は、イエスに対しても憶測を助長しようとしました。神殿の一番高いところにイエスを連れて行き、言いました、「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる…』と書いてあるから」(マタイ4:6)。
御使いたちが、あなたが落ちるのを赦すわけがない。「彼らはその両手にあなたをのせ[る]」。しかし、イエスは信仰と憶測の違いを知っておられました。
イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」 (マタイ 4:7)
戦略その3 – 野心を掻き立てる
サタンのエデンの園での第3の戦略は、野心を焦点としたものでした。サタンは善悪の知識の木から食べるようにエバを誘惑したとき、「あなたは神のようになる」と言いました(創世記 3:5)。
ここでもサタンは、イエスに同じ戦略を試みました。サタンは、イエスにこの世の王国とその栄華を見せ、「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう」と言いました(マタイ 4:9)。
しかし、イエスは言われました、
「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」 (マタイ 4:10)
私たちは皆、混乱を引き起こし、憶測を助長し、野心を掻き立てるというサタンの戦略について知っています。自分自身の生活の中で、これらの誘惑を経験しています。しかし、次のように思うかも知れません:「イエスの経験された誘惑はどれほど現実的なものだったのだろうか?聖なるお方が誘惑されることあどありえるのだろうか?」
イエスだけが誘惑がもつ力の全貌を知っておられます。なぜなら、イエスだけが敵の攻撃のあらゆる力に耐えたからです。
戦争中、三人の飛行士が敵地上空でジェット機を飛ばしていることを想像してください。彼らは撃墜され、捕らえられ、そして敵に尋問されるために連れて行かれます。一人ずつ暗い部屋に連れ込まれます。
一人目の飛行士は、彼の名前、階級、識別番号を伝えます。敵は、彼の部隊がいる位置を教えるように要求しますが、この飛行士はその情報を与えてはならないことを知っています。しかし、また一方で、彼は敵が残酷であることも知っています。そこで彼は、自分が知っていることを伝えます。
二人目の飛行士が連れて来られ、尋問が始まります。決して屈しない決意をしています。そのため残酷な行為が始まります。やがて彼はそれに圧倒されます。そしてそれに負けて、彼が知っていることを彼らに話します。
次に、三人目の飛行士が入ってきて、「あなたは私を打ち負かすことはできない」と宣言します。「何を言っているんだ。この部屋に入ってきた者は皆、いずれ打ち負かされ、情報を全て白状した。時間の問題だ。おまえも今に分かるだろう。」
残虐行為が始まりますが、彼はもちこたえます。それは激しさを増しますが、それでも彼は弱音を吐きません。それでさらに激しさが増します。もはや耐えられないほどになりました。それでも彼は耐えます。
最後に、彼らはあらゆる手法を尽くした末に、「無駄だ」言います。「彼はこれまでこの部屋に連れてきた他の誰とも違う。彼を打ち負かすことはできない。」
さて、この三人の飛行士のうち、どの人が敵の力の全てに直面したでしょうか?敵の力を完全に知る唯一の人は、最後まで耐えた三人目の飛行士です。
ですから、イエスの誘惑があなたより少なかったとは決して思ってはいけません。イエスだけが誘惑の力の全貌を知っています。なぜなら、キリストだけが敵の全勢力に耐えたからです。
- 誕生
- 誘惑 (30年)
- 十字架 (3年)
- 復活 (3日)
- 昇天 (40日)
誘惑を受けた後の三年間、イエスは公の宣教活動をされました。教え、奇跡を行い、従うようにと人々を招きました。
イエスのメッセージは明確でした:「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ 4:17)。「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ 1:15)。
群衆はイエスに従いましたが、当初から、国家や宗教の権力者たちはイエスに反対していました。三年後、イエスは捕らえられ、裁判にかけられ、断罪され、十字架にかけられました。
3. 十字架にかけられたイエス
イエスは朝の9時に十字架につけられ、午後の3時に死なれました。この十字架での6時間の間に起こったことは、聖書の物語の核心に迫るものです。
イエスは赦しを解放された
人間の神への反抗は、十字架上で極まり、最も恐ろしい状態へのぼりつめました。私たちは神の命令に背きました。そして、いまや神の御子を十字架にかけていました。
人類の歴史の中で、神の裁きが下されるべき瞬間があったとすれば、まさにこの時でした。しかし、イエスはこう叫ばれました:
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ 23:34)
イエスが、「父よ、彼らをお赦しください」と言われたとき、私たちの罪に対する罰を私たちからそらして、自身の上に移してくださいと、御父にお願いされたのです。
イエスは神の裁きが来ることを知っていましたが、彼はこう言われたのです、「それをこの人たちに降りかからないようにしてください。私に、そして私だけに降りかかるようにしてください。わたしを、彼らの罪に対するあなたの裁きが落ちる避雷針にしてください。」
アダムに容赦を示すために呪いが大地に下ったように、私たちの罪に対する裁きをイエスに下されたことで、神は私たちを赦してくださったのです。
イエスのこの祈りは、彼のもとに来るすべての人の罪を覆っています。そして、もしイエスのこの祈りが、彼を十字架に釘付けにした人々の罪に十分であったなら、それはあなたのすべての罪を覆うことができるのです。
イエスは天を開かれた
イエスから数メートル離れたところに、人生を悲劇的に無駄にしてしまった男がいました。彼は、犯罪を繰り返す生活を続けてしまい、今、その代償を払っていました。彼は十字架にかけられた強盗として知られています。
この男は、イエスの方を向いて言いました、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」(ルカ 23:42)。「父よ、彼らをお赦しください」とイエスが祈られるのを、この男は聞いていました。イエスは自分のことも赦してくださるかもしれない。
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」 (ルカ 23:43)
パラダイス!この男の生涯は悲惨な選択の連続でしたが、イエスの死を通して、曇りのない喜びの人生へ、即座に彼を移行することをイエスは約束されました。
その日が終わらないうちに、イエスはこの男を神の御前へと導かれるのです。地獄の淵にいたこの男が、突然、イエスのおかげで、天国の喜びに入ることになったのです。
イエスが死なれた時、神の臨在と祝福に戻る道が、この犯罪人だけにではなく、彼と同じようにイエスを信じるすべての人に開かれたのです。
イエスは地獄を耐え忍ばれた
さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 (マルコ 15:33−34)
この暗闇は、日食ではありませんでした。日食が三時間も続くことはありません。神が光を消されたのです。
このひどい暗闇の中で何が起こったのかを、聖書は語っています:
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。 (1 ペテロ 2:24)
主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。 (イザヤ 53:6)
彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。 (イザヤ 53:5)
これらの聖句や、その他多くの聖句が、一つのことを私たちに示しています。つまり、神がイエス・キリストとなって私たちのところに来てくださり、私たちの罪を負ってくださったことによって、罪人とご自身と和解させたという、驚くべき真理です。
このことがイエスにとって何を意味するか考えてみてください:
- 真っ暗な闇に投げ込まれました。
- 意識がある状態で苦しまれました。
- 悪霊の力に取り囲まれました。
- 罪を負わされました。
- 裁きを下されました。
- 御父の愛の慰めから切り離されました。
イエスは十字架の上で地獄に耐えてくださったのです。地獄とは、完全な暗闇の中で、悪魔の力に取り囲まれ、罪の罰を負い、神の裁きを受け、神の愛の慰めから切り離され、意識のある状態で苦しむことです。イエスは、あなたがそのような地獄を知ることが決してないように、十字架の上で地獄を耐え忍ばれました。
十字架の上で、イエスは赦しを解放され、天を開かれ、地獄に耐えてくださいました。そして…
イエスは勝利のうちに死なれた
三時間後、暗闇は去りました。イエスに注がれた裁きは使い果たされました。尽きたのです。正義が満たされ、イエスは叫ばれました:
「完了した」 (ヨハネ 19:30)
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。 (ルカ 23:46)
人が亡くなるとき、その声は徐々に弱くなり、やがてほとんど声が出せなくなります。死の瞬間に大きな声で語る人はいません。しかし、イエスはそうされました。
イエスが、死に圧倒されることはありませんでした。死は、イエスに打ち勝ちませんでした。「だれも、わたしからいのちを取りません… わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります」(ヨハネ 10:18)とイエスは言われました。イエスの命は奪われたのではなく、イエスによって献げられたのです。私たちのために、ご自身を与えてくださったのです。
イエスは勝利のうちに死に臨まれました。マルコはそのことを記録しています。
イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」 (マルコ 15:39)
- 誕生
- 誘惑 (30年)
- 十字架 (3年)
- 復活 (3日)
- 昇天 (40日)
イエスが死んだ後、イエスの遺体は十字架から降ろされて、ヨセフという人が所有していた墓に納められました。
そシて、墓は大きな石で閉じられました。しかし、三日目になると、墓は空になっていました。十字架につけられたイエスがよみがえられたのです!
4. よみがえられたイエス
福音書には、イエスの遺体が安置された墓のある庭に、女性たちが行ったときのことが記されています。
彼女たちが到着したとき、墓の前の石が動かされていて、墓は空でした。この事態をどう説明したらよいのか、全く分かりませんでした。ルカは、空の墓を見た女性たちが「途方に暮れていた」と記しています(ルカ 24:4)。
では、どのようにして何が起こったのかを知ったのでしょうか?
神が知らせてくださったのです。
そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た…「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」 (ルカ 24:4、5−6)
神は御使いを二人呼んで、次のように命じました、「行って、この女性たちに私がしたことを伝えなさい。」
クリスチャンの信仰は、神がなされたことの、神の説明を信じることにかかっています。
例えば、マリアが子を身ごもったとき、自分に何が起こっているかを知るすべはありませんでした。そこで神が、御使いを遣わして、それから起こることを説明させたのです。
イエスが十字架にかけられたときも同じでした。イエスが死ぬのを多くの人が見ましたが、神が暗闇の中で何をされているかは、彼らに分かりませんでした。神は、十字架の上でイエスが私たちの罪を負い、犠牲として命を献げられたことを教えてくださいました。神は、十字架を通して、この世をご自分と和解させたのだと告げられました。
キリスト教の信仰は、感情や衝動、個人的な洞察に基づくものではありません。聖書の中にある神の説明を信じることです。
「よみがえられたのです」 (ルカ 24:6)
イエスの復活は、現代の私たちにとってどのような意味を持つでしょうか?
「よみがえられた」とは、イエスが生きておられるということです
私たちも、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。 (ヘブル 12:1−2)
聖書は、私たちに、死んだ宗教ではなく、生きておられる救い主を提示しています。今、イエスは神の御座の右に座しておられるのです。
聖書の物語の核心にあるのは、議論されるべき一連の信条や、考慮されるべき生き方ではありません。聖書は、私たちに今も生きておられる方を紹介しています。あなたはその方を知ることができ、その方を知ることはあなたの人生を変えます。
もし、イエスが単なる歴史上の偉人に過ぎないのであれば、イエスの教えから学ぶか、無視するかは個人の自由です。しかし、イエスは、歴史上の偉大な人物以上の存在です。
イエスは、私たちと共におられる神です。天と地の主です。私たちのためにこの世に来てくださいました。私たちのために十字架で苦しみ、死んでくださいました。私たちのために死からよみがえってくださいました。そして今、私たちの命、愛、そして忠誠をご自身のものとされます。
よみがえりとは、イエスが生きておられるということです。会うことができる救い主がおられるのです。その方はあなたの祈りを聞いてくださいます。あなたに力と勇気と忍耐と希望を与えてくださいます。
イエスは、人間の抱える問題に対する神の答えです。人間は悪を知り、楽園から追放されました。
聖書のメッセージとは、悪から自分を救いなさいということではありません。聖書を読み、祈りを捧げ、よりよい人生を送ろうと努力して、天国への道を見つけなさいというものでもありません。
聖書のメッセージとは、イエス・キリストがあなたを救うことができるということです。イエスは、あなたを悪の力から救い出すことができます。天国の扉を開くことができるのです。
ですから、イエス・キリストを生ける主、そして生ける救い主として受け入れ、あなたの身を委ねてください。イエスを信頼してください。神が求めておられるあなたになることができます。
「よみがえられた」とは死が打ち破られたことを意味します
しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。(使徒 2:24)
人類の歴史を通じて、死は人類に対して恐怖政治を行使する暴君のようなものでした。誰もそれから逃れることはできません。しかし、イエスの復活によって、神に属するすべての人にとって、死はいのちへの入り口になると神が保証してくださっています。
私が小学生の頃、クラスでペットのネズミを飼っていました。週末になると、順番にそのネズミを家に連れて帰っていました。私の番がまわってきたとき、ネズミを私のおもちゃで遊ばせることにしました。
ネズミは私の真っ赤な二階建てロンドンバスに興味をそそられ、周りを嗅ぎ回った後、中に入って行きました。この遊びは、ネズミをとても楽しませましたが、ネズミがバスの前方に到達するとことは一変しました。その時、問題が発生したのです。ネズミは前に進むことも、後ろに戻ることもでき無くなり、完全に立ち往生してしまいました。
父がこう言ったことを覚えています、「できることは一つしかない。バスを壊すんだ!」父はナイフを取り、屋根に穴を開けました。
その時の安堵感は、言葉では言い表せないほどでした。しかし、私のバスがもとの状態に戻ることはありませんでした。少しへんてこなバスになってしまいました。屋根に穴が開いてしまった真っ赤なロンドンバスです!
もちろん、これはネズミにとってさらに興味をそそられるものになりました。以前は、バスには入ることはできても、出ることはできませんでした。今では、ネズミはドアから入り、階段を上り、屋根から出ることができるのです。
イエスが死なれた時、死に穴が開けられました。イエスに属する者にとって、死はもはや牢獄ではなく、神の臨在へと直接続く通路となったのです。
「よみがえられた」とは、私たちの全てが贖われることを意味します
どの宗教にも死後の世界について何らかの考えがあります。しかし、復活はキリスト教特有な考えです。良い知らせとは、単にイエスが生きているということではなく、イエスがよみがえられたということです。この違いについて考えてみる価値があります。
神の御子は、人の肉をとる前から天国で生きておられました。では、なぜ彼は十字架につけられた体を墓に残して、御父のもとに戻らなかったのでしょうか?結局のところ、それはただの肉と骨です。なぜ、わざわざ身体ごとよみがえられたのでしょうか?
御使いたちがイースターの朝に現れ、「イエスの体は墓の中にありますが、彼の霊は天の父のもとにあるので心配することはありません」と言うこともできたはずです。実際、これこそが、クリスチャンが亡くなったときに葬儀で私たちがまさに言うことではありませんか?
しかし、福音書にはそうは書かれていません:
これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。
そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。
わたしにさわって、よく見なさい。
幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」
こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。 (ルカ 24:36−43)
復活は、肉体が重要であることを教えています。あなたは魂と体がひとつとなっている素晴らしい存在です。イエスはあなたの一部を救うためではなく、あなたの全体を贖うためにこの世に来られました。肉体と魂の両方を含めたあなたを、神の臨在のもとへと連れていくために来てくださったのです。
福音とは、イエスがよみがえられたことです。復活の体こそが、すべてのクリスチャンの前にある栄光ある未来です。
イエスがよみがえられたので、イエスに属する者もよみがえります。これは、聖書で明確に記されている約束です:
キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。 (1 コリント 15:20−23)
- 誕生
- 誘惑 (30年)
- 十字架 (3年)
- 復活 (3日)
- 昇天 (40日)
よみがえられたイエスは、何度も弟子たちに現れました。
ルカの記録によると、イエスは「苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた」(使徒 1:3)。
イエスはガリラヤの山で弟子たちと会い、「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」(マタイ 28:19−20)と命じました。それから、彼らに素晴らしい約束を与えられました:「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(28:20)。
よみがえられたイエスは、約六週間にわたって現れてくださいました。しかし、イエスはすでに弟子たちに御父のもとに帰ることを告げており、復活から四十日後に、イエスは天に上っていかれました。
5. 昇天されたイエス
イエスが天に上られたときの様子は、ルカが記しています:
それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。 (ルカ 24:50−52)
イエスが去っていくとき、なぜ弟子たちは大きな喜びを感じていたのでしょうか?
私は、スコットランドからアメリカへ移住するとき、グラスゴー空港で両親に別れを告げた日のことを忘れることはできません。
私たちは十分に準備をしていましたし、誰もがそれが正しいことだと信じていました。しかし、私たちは移住するので、愛する人たちと物理的に一緒にいられなくなります。さようならを言うための準備をどんなにしていても、いざその時になると、それは決して容易なことではありません。
もし、私たちが旅立った後、両親が喜んで家に戻って行ったと聞かされたなら、少しばかり驚いたに違いありません。では、イエスが天に上られたとき、弟子たちはなぜ喜びに満ちていたのでしょうか?
弟子たちが喜んでいたのは、イエスが天におられるからです
そして、祝福しながら彼らから離れて行き、 天に上げられた。 (ルカ 24:51)
イエスが天に上げられたことの重要性について考えてみましょう。主イエス・キリストは、地上で私たちと同じ人となられ、そして今、私たち人間を天に導いてくださっているのです。
アダムは神の臨在から追放され、すべての子孫は神から疎外されました。イエスが天国に迎え入れられたので、同様にイエスに属するすべての人も天国に迎え入れられます。
イエスが天に上げられた時、弟子たちは、イエスがまさに自分たちが必要とする場所におられることを理解していました。
例えば、あなたが重大な罪で起訴され、刑務所に入っているとしましょう。あなたには弁護士が必要です。
弁護士と知り合いになると、彼がとても思いやりのある人だと知ります。彼が、独房を訪ねるとき、その存在にとても励まされます。
しかし、弁護士に対してあなたが最も求めることは、独房での励ましではありません。あなたが必要としているのは、法廷での弁護です。そして、私たちが最も必要としているのは、父なる神の前で私たちのために弁護してくださる代弁者です。そして、まさにそのことをイエスが天において私たちのためにしてくださっているのです。
私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。 (1 ヨハネ 2:1)
イエスが昇天されたとき、弟子たちは喜びに包まれました。それは、天において、イエスが自分たちに代わって父なる神に話してくださると弟子たちは理解していたからです。
弟子たちが喜んでいたのは、イエスがご自身の民を祝福されているからです
そして、祝福しながら彼らから離れて行き、 天に上げられた。 (ルカ 24:51)
最後に見る姿は、印象に残るものです。弟子たちが見たイエスの最後の姿は、彼らを祝福するために手を挙げられた姿でした。
イエスは、弟子たちを祝福しながら昇天されたのです。そして、今、イエスは何をされているのか問うなら、その答えは、イエスが今もご自分の民を祝福しておられるということです。
ヘブル人への手紙には次のように書かれています:
イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。 (ヘブル 7:25)
イエスは私たちのために執り成してくださっています。イエスは私たちに代わって御父に私たちの弁護をしてくださっているのです。イエスが求めるものを御父は与えてくださいます。あなたが直面する人生のあらゆる状況で必要とするものはすべて与えられます。なぜなら、イエスが私たちに代わって御父に話してくださっているからです。
弟子たちが喜んでいるのは、イエスが再臨されるからです
イエスが昇天されたとき、御使いが弟子たちに現れて言いました:
「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」 (使徒 1:11)
これは、イエスご自身が約束されたことでした。イエスは弟子たちに、彼らのために場所を用意すると言われました。イエスの死、復活、昇天によってこれが実現したのです。
そして、イエスは言われました、「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」(ヨハネ 14:3)。イエスが天国に入られたのは、私たちにも天国が開かれるようにするためでした。弟子たちが喜びに満たされたのも不思議ではありません!
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書は、イエスがお生まれになり、誘惑され、十字架にかけられ、よみがえられ、昇天されたことを伝えています。
ヨハネは言います、
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。 (ヨハネ 20:31)
神は、主イエス・キリストを信じる者に、素晴らしい賜物を与えてくださいます。それらは新約聖書の手紙に記されていますので、引き続きお付き合いください。 最後のセッションで、そのうちの五つの賜物について見ていきます。
- この五つの出来事のうち、私たちに対する神の愛を最もはっきりと見ることができるのはどれでしょうか?それはなぜですか?
- イエスの地上の生涯における最大の功績は何だと思いますか?
- このセッションを受ける前と後で、イエスの見方について変わったことはありますか?1つか、2つ挙げてみましょう。