イエスのメッセージの中核を担うものは明確でシンプルでした:「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい!」(マルコ 1:15)。国とは王の支配下にある場所のことであり、イエスが「神の国」について語られたとき、イエスは神の支配下にある人生の祝福について語られたのです。
神の支配の下で生活する者は神の国に属し、この特権はすべての人に開かれていることをイエスは明確にされました。この国に入る条件は、悔い改めて、福音を信じることです。王にひれ伏さなければ、王国の恩恵を受けることはできません。
使徒たちの信仰
イエスは自分に従うようにと多くの人々を招きましたが、そのうちの十二人を使徒とされました。彼らの特別の役割は、イエスと共にいて、宣教し、悪霊を追い出すことでした(マルコ 3:14−15)。彼らには、イエスの奇跡を見て、イエスが言ったこと、行ったことを記録する特権を与えられました。
イエスと共に旅をする中で、イエスは彼らに、神に従い、互いに愛し合い、神の支配の下で信仰生活を送ることを教えられました。
イエスが弟子たちだけと共にいたときに、イエスは弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねられました(マタイ 16:15)。ペテロが前に出て、他の者たちを代表して言いました:「あなたは生ける神の子キリストです」(マタイ 16:16)。三年間イエスと共にいて、弟子たちは、イエスこそ旧約聖書が指し示している約束のお方だと確信していました。
イエスはこの時を選んで、これから先に起こることを弟子たちに伝えられました。「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」(ルカ 9:22)。
イエスはご自分の前に何が待ち受けているかを知っておられました。十字架の上で耐えられた苦しみは、イエスにとって思いがけないことではなかったのです。イエスはそれに備えて準備されていました。イエスは、「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(マルコ 10:45)。そして、その目的を果たすためにエルサレムに行かれました。
未来を垣間見る
それから約一週間後、イエスは三人の弟子たちを連れて祈るために山に登られました。一緒に山に登り、頂上に着くと、イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネに未来の姿を見せてくださいました。イエスが祈っておられると、「御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた」(ルカ 9:29)。
イエスからは驚くべき光が放たれていました。明らかに三人の弟子たちはそのイエスの姿を表現する語彙を持ち合わせていませんでした。マルコがペテロの回想を次のように記録しています:イエスの衣は「非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった」(マルコ 9:3)。
私たちはこの出来事を「変容」と呼んでいます。イエスは、ご自分の死と復活の後に得ることになっている栄光を弟子たちに見せられたのです。弟子たちはこれを見る必要がありました。その数日後には、弟子たちはイエスの顔が、打ちたたかれ、あざができ、むち打たれ、殴られるのを見ることになっていたからです。イエスは、誰だかわからなくなるほど痛めつけられることになっていました(イザヤ 52:14)。
茨の冠がイエスの頭に突き刺さり、そして、十字架にかけられた六時間後には、彼の顔の光は消え、彼の目は死によって暗くなります。弟子たちはこれが終わりではないことを知る必要がありました。そのため、イエスは十字架の向こうにある栄光を垣間見せてくださったのです。
モーセとエリヤの二人がイエスと共に現れました。彼らはイエスから放たれる栄光を共有していました。これには弟子たちは全く驚いてしまったに違いありません。モーセの死から1,500年、エリヤの死から約700年が経過していたのに、ここで彼らはイエスの栄光の輝きを共有していたのです。
その時の弟子たちには、到底理解できませんでしたが、イエスにとっても、イエスを信じる人々にとっても、死が終わりではないことを明確に示していました。大いなる栄光が待ち受けているのです。
荘厳な雲
しかし、この体験における最も劇的な瞬間はまだこれからです。弟子たちがイエスと話をしていると、雲が彼らを包みました。弟子たちはすぐに何が起こっているのかを悟りました。全能の神の臨在は、モーセに十戒が与えられたときに、雲となってシナイ山に降りてきました。ソロモンの時代には、神の臨在の同じ雲が神殿を満たしました。今、神の臨在の雲が彼らを包んでいました。弟子たちは非常に恐れて地面にひれ伏しました。そして、イエスが彼らを起こしてくださいました(マタイ 17:6−7)。
神がシナイ山でモーセに会うために下りてこられたとき、神は聞くことができる声で語られました。そして今、再び神の声が聞こえました。「すると雲の中から言う声がした。『これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け』」(ルカ9:35)。
第三の山からの眺め
弟子たちは、主イエス・キリストへの信仰に対してこれ以上はないくらい明確な弁護をいただきました。弟子たちは、モーセの律法の専門家であると主張する人々がイエスに反論するときのパターンを見てきました。しかし今、彼らはモーセ自身が現れて、イエスの主張の正しさを直に証言するのを目撃したのです。
さらに、父なる神が聞くことができる声で、イエスが本当にご自分の御子であることを断言し、イエスの言うことを聞けと弟子たちに命じられました。ある人たちは、イエスを偉大な教師、奇跡を起こす人、預言者とみなしました。また、イエスを悪魔に取り憑かれているとみなした人もいました。しかし、父なる神はイエスを御子であると断言されたのです。
後に、使徒ヨハネはイエスについて次のような言葉を書いています:「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ 1:14)。
変容の栄光によって、イエスと弟子たちはエルサレムで待ち受けていることへの準備が整いました。その物語は、私たちをまた新たな暗い谷間へと連れ込みます。