神がすべてのクリスチャンに与える五つの賜物
エペソ人への手紙 1章13−14節
3私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。4すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。5神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。6それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえらるためです。7このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。8この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、9みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、10時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。
11またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。12それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。13このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。14聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。
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セッション3:五つの賜物(贈り物)
手紙
『聖書を開く』の3回目、最終回へようこそ。これまでに旧約聖書では五人の人物に出会い、福音書ではイエスの生涯における五つの出来事を見てきました。そして、この最後のセッションでは、主イエス・キリストを信じるすべての人に神が与えてくださる五つの賜物について見ていきます。
その五つとは、
- 聖霊という賜物
- 信仰という賜物
- 赦しという賜物
- 教会という賜物
- 天国という賜物
1. 聖霊という賜物
イエスは天に昇られる前に、約束された聖霊が与えられるまでエルサレムで待つようにと弟子たちに言われました。
「聖霊があなたがたの上に臨むとき、
あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、
さらに地の果てまで、
わたしの証人となります。」 (使徒 1:8)
イエスが天に上られた十日後、エルサレムではペンテコステと呼ばれる祭りが行われていました。使徒の働きの書には、ペンテコステの時に、イエスの弟子たち全員に聖霊が注がれたときの様子が記されています。
この日には、三つの驚くべき出来事がありました:
風の音
五旬節の日になって、
皆が同じ場所に集まっていた。
すると天から突然、
激しい風が吹いて来たような響きが起こり、
彼らが座っていた家全体に響き渡った。 (使徒 2:1−2)
古代の世界では、多くの言語で「風」、「息」、「霊」という言葉に同じ単語が使用されていました。風の音と息の音は似ています。風の方が、音が大きく長く続くところが異なっているだけです:「ヒューーー」
ヨハネの福音書の最後に、イエスが弟子たちに息を吹きかけた場面が出てきます。
イエスは再び彼らに言われた。
「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、
わたしもあなたがたを遣わします。」
こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。」 (ヨハネ 20:21−22)
イエスはこのとき、ペンテコステの日に何が起こるかを説明していたのです。「こうなるのだ。私は天に上り、そのとき、私の霊を吐く:ヒューーー」
さて、弟子たちが「激しい風が吹いて来たような響き」を聞いたとき、それはイエスが息を吹きかけられたときに聞いたのと同じ音でしたが、もっと大きな音でした。それで彼らは何が起こっているのかを理解しました。 つまり、イエスが約束されたとおり、聖霊が注がれたのです。
聖書の中で、何か変わったことを発見したら、次のように問いかけてみるといいでしょう。「聖書のこれまでのページのどこかで、これと似たことがなかっただろうか?」そして、「これ以前どこかで、風や息の音がなかっただろうか」と問えば、明白な答えが見つかります。
旧約聖書で、神がアダムにいのちの息を吹き込まれたのを私たちは見ました。神は大地のちりから体を造りました。それから、神はその人の形に息を吹き込まれました。神はアダムに息を吹き込まれ、アダムは生きる者となりました。
神がアダムになさったことは、まさにペンテコステでなされたことを物語っています。天地創造において、神はアダムの体に息を吹き込まれ、アダムは生きる者となりました。ペンテコステでは、神が最初の信徒らに息を吹き込まれ、教会(つまり、キリストの体)に命が宿りました。
第二の驚くべき出来事は…
炎の出現
炎のような舌が分かれて現れ、
一人ひとりの上にとどまった。 (使徒 2:3)
このとき、自分がこの信者たちと一緒にいたらと想像してみてください。最初は大きな火の玉、あるいは火の柱が自分たちに向かってくるように見えたはずです。それはとても恐ろしかったに違いありません。
火の玉が近づいてくると、それは個々の炎へと分かれていきました。つまり「炎のような舌」です。そして、炎のように見えたものが部屋にいたすべての人のもとに来て、とどまったのです。すべての人に炎がとどまりましたが、火傷をした人は1人もいませんでした。
旧約聖書では、神は、芝の上で燃える炎の中でモーセの前に現れました。しかし、その芝は燃えていませんでした。ペンテコステの日、神は同じように現れ、最初の弟子たちに、ご自分はすぐそばにいることを示されました。
神が炎の中でモーセに現れたとき、神は、モーセに神の民を奴隷状態から脱出させるように命じました。そして今、ペンテコステの日に、神は炎の中で現れて、教会に使命を授けました。
この情景を想像してみてください。見上げると、頭上に火の玉があります。次第に、何が起こっているのかを理解します:神の民に使命を授けようと神が来られているのです。火の玉がゆっくりと下降してきます。誰の上にとどまるのでしょうか?ペテロでしょうか?ヤコブ、ヨハネ?あるいは、使徒たち全員?
しかし、火の玉を見上げると、それが炎に分かれて、そのうちの炎の一つがあなたに向かってくるのに気付きます。部屋を見回すと、炎が一つずつ、すべての人の上に留まるのが目に入ります!
そうです、神の霊は、イエスを信じるすべての人に注がれるのです。主に仕えることを命じられたのは、一部の特権的な人たちではありません。神の民全員です。
ペンテコステの日の三番目の驚くべき出来事は…
多言語でのコミュニケーション
すると皆が聖霊に満たされ、
御霊が語らせるままに、
他国のいろいろなことばで話し始めた。 (使徒 2:4)
ペンテコステの時、エルサレムには、人々が「天の下あらゆる国々から」集められました(使徒 2:5)。神の霊が臨んだとき、神の民は、それまで一度も学んだことのない言語で話せるようになりました。そのため、世界中からやってきた人々は、イエスの福音を自分たちの言語で聞くことができました。
街にいた人々は風の音を聞くと、何が起こっているのか見ようと、風が吹いてきた方向に向かいました(使徒 2:6)。
彼らが到着すると、そこにいた人々がそれぞれの言葉で神がなさったことを宣言していたのです。
もし、あなたがその日エルサレムを訪れていたなら、自分の言語を話す人を探したことでしょう。そして、その通りになったのです。それぞれの信者の周りに小さなグループができて、彼らは皆、自分たちが理解できる言語で、神がなさったことを聞きました。
地球上のすべての国民を祝福するという神の約束が果たされ、今現代もその約束が成就しています。神がイエスにおいて成し遂げられた福音は、すべての人のためにあるのです。神は、この福音があらゆる言語で宣べ伝えられることを望んでおられます。そして、信じる者は皆、この良い知らせを伝える役割を担っています。
あなたは誰の言葉で話すことができますか?子どもたちや若い人たちが共感できるような言葉で話せるかもしれません。他の文化圏の人たちとコミュニケーションできるような言葉が話せるかもしれません。もしかしたら、あなたはある言語を学ぶことで、他の人々がイエスの福音、良き知らせを聞くための手段となることができるかもしれません。
あなたの周りにいる人で、聖書の神を知る必要があり、もしあなたが尋ねれば、一緒に聖書を開いてくれそうな人はいますか?
あなたの周りには、神が用意してくださった人々の輪があります。神が彼らにしてくださった良い知らせを伝えることができるのは、あなたです。
- 聖霊
- 信仰
- 赦し
- 教会
- 天国
風と、炎と、様々な言語の後、ペテロは立ち上がり、神が聖霊を注ぐという約束を果たされたことを説明し、その理由を人々に語りました。それは、神がイエスを死者の中からよみがえらせ、すべての者の主として高くされたからです。
エルサレムで多くの人々がイエスを十字架につけるように求めてから、ほんの数週間しか経っていませんでした。ペテロは、彼らが十字架につけた人こそ神の子であると告げました。
「私たちはどうしたらよいでしょうか?」と人々は問いました。ペテロは彼らに、「悔い改めて、イエスに対する態度をすべて改め、バプテスマを受けるように」勧めました。
約三千人がその勧めに応じて、信者のコミュニティができました。聖霊が注がれると、人々は信じるようになったのです。
2. 信仰という賜物
信仰とは、神が明らかにされたことを信じ、神が約束されたことを信頼することです。ヘブル人への手紙にはこう書かれています:
さて、信仰は、望んでいることを保証し、
目に見えないものを確信させるものです。 (ヘブル 11:1)
信じるというのは、私たちが取る行動です。「主イエスを信じなさい。そうすれば…救われます」(使徒 16:31)。そして、それは私たちがしなければならない事です。イエスは言われました、「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです」(ヨハネ 6:29)。
しかし、聖書はまた、信仰は賜物であると明確に述べています。
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 (エペソ 2:8)
つまり、信じることは私たちがすることであり、信仰は神がくださる賜物なのです。イエスは私たちに信じるようにと呼びかけ、その命令とともに、私たちが従うために必要とするものを与えてくださっています。
私はこの信仰という贈物について三つの見解を述べたいと思います…
信仰は生まれもった才能ではない
生まれつき運動神経の良い人がいます。トレーニングは大変な作業で、特定のスポーツの技術を身につけるには、何時間も練習する必要があることを私も知っています。それでも、生まれつきスポーツが得意な人がいます。走っている姿が自然とさまになる人がいるのです。
一方、そんなうまい具合に体ができてない人もいます。どんなに努力しても、運動神経のいい人にはかないません。芸術や音楽でも同じです。誰でも挑戦することができても、上手な人と、そうでない人がいます。
さて、信仰に関しても同じだと考えるのは簡単でしょう。「信仰に自然と興味をそそられる人もいるでしょうが、私は違います。自分が信仰に至ることはないでしょう」と言う人に何人か出会ったことがあります。
もし、信仰が生まれつきの才能だとしたなら、それはひどく不公平なことです。神が、ある人たちを、簡単に救いが得られる特権的な立場に置いたことになります。そして、その他の人にはほとんどチャンスがありません。
信仰は、ある人が生まれながらにして持っている才能ではありません。私たちが自分の内側で見出さねばならない気質ではないのです。
信仰とは、神が啓示されたことを信じ、神の約束に信頼することです。そして、神は聖書において、その同じ啓示と、同じ約束をすべての人に与えておられます。ですから、信仰に関しては、他の人よりも優位に立つことはできません。
信仰が生まれつき備わったものでないのであれば、どうやってそれを手に入れることができるのでしょうか?
信仰は神の御言葉を通して与えられる
信仰は聞くことから始まります。
聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。 (ローマ 10:17)
信仰は、神の啓示を信じることです。神が語られたことを信じることにかかっています。もし神が何も語られていなければ、信仰は不可能です。しかし、良い知らせがあります。 神は語ってくださいました。それゆえ信仰を持つことができるのです。
今、私たちが聖書を開いて行っていることは、古代の書物を研究しているだけではありません。私たちは神の言葉を聞いているのです。そして、信仰は聞くことから始まります。神の御言葉は生きた種のようなものです。それは植えられた場所で成長し、信仰という実を結びます。
信仰とは、説得力のある証拠を基にして各自が信頼することです
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。 (ヨハネ 20:31)
神は天から身を乗り出し、握りこぶしを振り上げて「信じなさい!信じるんだ!」と叫んでいるのではありません。神は、聖書の中で御自身を明らかにされ、その証拠を吟味するようにと私たちに促しておられます。
人はイエスを知ることによって、イエスを信じるようになるのです。イエスが弟子たちにご自身を知るようにされたのは、彼らがイエスに従うことを通してでした。それは、あなたにとっても同じことです。神が啓示されたことを見て、聖書の中で約束されたことを聞いて、神に従っていくうちに、あなたの中に信仰が形成されていくのです。
あなたは、「私は信用しない。信頼できない」と言うことがあるかもしれません。しかし、なぜ信頼しないのでしょうか?あなたの不信感は、証拠に基づいています。あなたは、人があなたを失望させることを何度も経験し、あなたの不信感は、あなた自身の経験という証拠に基づいています。
信仰は証拠、つまり聖書の証拠に基づいています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが信じるため」です。神は、誰も信頼してはいけないと教える壊れた世界から抜け出して、神の御子イエスを見るようにと招いています。あなたが経験してきた失望から目を離し、神の中にある希望を見出すようにと、神はあなたを招いておられるのです。
- 聖霊
- 信仰
- 赦し
- 教会
- 天国
人が悔い改めと信仰をもってイエスに立ち返るとき、何が起こるのでしょうか?
イエスは、家を飛び出して父親のお金を浪費した放蕩息子についての話をされました。ついに息子はどうすることもできなくなり、父のもとに戻ることにしました。
彼は歓迎されないと思ったので、「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と父にお願いするつもりでした。おそらく、父のために働けば、自分が本当に反省していることを示すことができ、やがて父の好意を取り戻すことができるだろうと考えたのでしょう。
しかし、息子がまだ家までは遠かったのに、父は彼を見つけて、駆け寄ったとイエスは語られました。父は息子を抱き、口づけして、家に迎え入れました。
イエスは言われます、「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません」(ヨハネ 6:37)。私たちが信仰と悔い改めをもってイエスのもとに行けば、イエスは神の赦しという素晴らしい賜物で、私たちを抱きしめてくださるのです。
3. 赦しという賜物
聖書で「赦し」を表す言葉は、「義認」という言葉です。「義とされる」とか「義認」という言葉に出会ったら、「赦される」、「和解させてもらう」、あるいは「神との正しい関係に戻される」という意味であると覚えていてください。
あなたが信仰を持ってイエスに目を向けるとき、イエスはそうしてくださいます。イエスは、あなたを赦してくださり、義と認めてくださいます。あなたを神との正しい関係に戻してくださるのです。
聖書は、私たちの赦しや義認について、三つの方法で説明しています…
- 私たちが赦されるのは、恵みによってである。
- 私たちが赦されるのは、信仰を通してである。
- 私たちが赦されるのは、イエスの血潮のおかげである。
私たちが赦されるのは、恵みによってである
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、
神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、
価なしに義と認められるからです。 (ローマ 3:23−24)
「恵みにより義と認められる」という言葉によって、赦しが賜物であることが分かります。神があなたの信仰を見て、「ああ、あの女性は本当に素晴らしい信仰を持っているから、彼女の罪を赦そう 」と言われるのではありません。赦しとは、信仰に対する報酬ではありません。それは賜物です。相応しくないものが価なしに与えられるのです。
私たちが赦されるのは、信仰を通してである
こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、
私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 (ローマ 5:1)
赦しは神のからの賜物であり、私たちがそれを受け取る方法は、信仰によってです。信仰は手のようなもので、神が賜物として価なしに提供してくださるものを受け取るために開かれています。
信仰によってあなたはイエスと結ばれます。聖書は、イエスと彼を信頼する人々との関係を、花嫁と花婿の結びつきのようだと記しています。
結婚式で、新郎新婦は次のように尋ねられます。「この人をあなたの生涯の妻としますか?この人をあなたの生涯の夫としますか?」新郎も新婦も誓わなければなりません。二人が誓えば、二人は結ばれるのです。
次のように考えてみてください:神はイエスに「あなたは罪人を引き受けて、彼らの救い主となりますか?」と問われました。そしてイエスは、「はい、そうします」と十字架の上で言われたのです。
そして今、 神はあなたに尋ねます、「イエスを救い主として受け入れますか?」そして、あなたがイエスに自分自身を預けるなら、「はい、そうします」と言っているのです。
信仰によってあなたはイエスに結びつけられ、あなたがイエスのものとなれば、イエスのものはすべてあなたのものとなります。
私たちが赦されるのは、イエスの血潮のおかげである
ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、
この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。 (ローマ 5:9)
信仰を通して、私たちは神からの赦しという賜物を受け取ります。しかし、その賜物はイエスの死によって買い取られたものです。
イエスは私たちのために十字架上で血を流されました。だからこそ、私たちは赦されたのです。信仰とは、イエスが買い取ってくださったものを私たちが受け取るための手段に過ぎないのです。
ですから、自分の信仰に頼るという間違いを犯さないでください。信仰とはイエスを信頼することであり、最も重要なのはあなたの信仰の強さではなく、あなたの救い主の強さなのです。
シカゴでの初めてのクリスマスの後、私たち家族はウィスコンシン州に旅行に行きました。フォン・デュ・ラクへの道中で、湖畔に立ち寄って景色を見ることにしました。湖のほとりは凍りつくような寒さでした。当時10歳と8歳だった息子たちは、「パパ、氷の上に行ってもいい?」と尋ねてきました。
親というものは、何も考えていないとき、既定通りの返事をするものです。イギリスの冬はそれほど寒くなりません。氷があっても薄いことが多いのです。だから私はいつものように、「いいけど、注意して行きなさい」と返事をしました。
想像してみてください。真冬のウィスコンシン州で到着したばかりの外国人が、慎重に氷の上進み出ていきます。一歩一歩、足元を確かめながら緊張して進んでいると、突然、エンジンの轟音が聞こえ、凍った湖の上へと、四輪駆動車が走り込んできたのです。こんなに間の抜けた思いをしたことはありません。
私たちは、氷の硬度をほとんど信頼していませんでしたが、全く安全だったのです。私たちが立っていた氷は岩のようにしっかりしていました。私たちの安全は、私たちの(氷に対する)信仰の強さではなく、私たちが立っている氷の強さにかかっていたのです。
私たちは信仰の強さではなく、救い主の強さによって救われているのです。
- 聖霊
- 信仰
- 赦し
- 教会
- 天国
ここまで、聖霊という賜物、信仰という賜物、そして赦しという賜物について見てきました。
これらはすべて、個々人への素晴らしい賜物です:聖霊はあなたの人生において働かれます。信仰は神の言葉によって形成されます。そして、あなたが主イエス・キリストを信じるとき、主はあなたのものとなり、主があなたのものとなったとき、赦しもあなたのものとなります。
神があなたを御自身と和解させてくださると、あなたを神の家族の一員にしてくださいます。その結果、神がすべての信者に与えてくださる第四の賜物、教会という賜物をいただくことになります。
4. 教会という賜物
教会と聞くとき、何を思い浮かべますか?ステンドグラスの窓?硬い木製のベンチ?長くて退屈な説教?
聖書はこう語っています:
…キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられた。 (エペソ 5:25)
イエスは、ステンドグラスの窓や木製のベンチ、退屈で長い説教のためにご自分を献げられたのではないことは確かです。では、教会とは何なのでしょうか?なぜ、イエスは教会のためにご自分を献げられるほどにまで、教会を愛されたのでしょうか?
イエスは教会という言葉を二回使っています。そして、イエスが語ったことを通して、私たちにとって教会とは何かを知ることができます。
教会は、時と場所を問わず、すべての信者によって構成されている
イエスが初めて教会について語られたとき、それはあらゆる時代、あらゆる場所にいるすべての信者を指しておられました。
ペテロがイエスへの信仰を告白したとき、イエスは言われました、
「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。
わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。
よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」 (マタイ 16:18)
ここでイエスは、地域の教会や教派について語っているのではありません。あらゆる時代、あらゆる場所のすべての信者について語っているのです。「わたしの教会を建てます」– 単数形です! すべての信者で構成される一つの教会があるのです。そして、キリストはそれを建ててくださるのです。
イエスは「よみの門もそれ[教会]に打ち勝つことはできません」(16:18)と言っておられます。ここでも、イエスは地域の教会や教派のことを言っておられたのではありません。
教会が道を外してしまい、閉鎖したという悲しい話が世界中にあります。しかし、イエスが建ててくださっている教会には生命があり、健全です。その大部分はすでに天にあります。あらゆる時代、あらゆる場所のすべての信者を含んでいるのです。
教会は、地域の信者の集まりです
イエスが教会について二度目に語られたときは、明らかに地域の信者の集まりを指していました。
「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、
行って二人だけのところで指摘しなさい…
もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい…
それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい…」 (マタイ 18:15、16、17)
「教会に伝える」というのは、「あらゆる時代、あらゆる場所のすべての信者に伝える」ということではあり得ません。そんなことができる人はいません。イエスがここで話されたのは、明らかに地域の信者の集まりのことです。
ですから、私たちの主は「教会」という言葉を二通りに使っています。一つは、あらゆる時代、あらゆる場所のすべての信者のことを意味し、二つ目は、地域の信者の集まりのことを意味しています。神によって召され、遣わされて奉仕している信者の集まりです。
教会は自分たちが選んだ人々の集まりではありません。あなたと、私と、私たちが選んだ数人の友人だけの集団では決してありません。イエスは、彼を信じる信仰へと人々を導き、彼らを地域の会衆へと集めることで、教会を建てていかれます。
教会について二つの見解を紹介します:
教会は神が定められた目的達成のための中心的存在である
パウロは次のように語っています、
万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義[は]…
今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであ[る]。 (エペソ3:9-10)
この天上にある支配者と権威者とは、御使いたち、つまり神を礼拝し仕えるために神によって創造された霊的存在のことです。神の目的は、「教会を通して」神の知恵が彼らに知られるようにすることです。
そして、これこそが神が万物を創造された理由です。つまり、神の知恵と栄光が知られるためなのです。それはどのように知らされるのでしょうか?教会を通してです。
失われた罪人が新しいいのちに導かれ、悔い改めと信仰をもってイエスに立ち返り、赦さ、神と和解し、教会に集められるとき、御使いらは息を呑んで「見なさい、神がなさったことを!」と言います。
私たちが抱える多くの罪や失敗にもかかわらず、信徒たちが互いに愛し合い、互いに赦し合い、自分のことよりも他者の必要を優先するとき、御使いたちは神の知恵が披露されたのを見るのです。
教会は神の目的の中核を担うものであり、キリストの教会の一員であることは比類のない特権です。
教会には輝かしい未来が用意されている
パウロは次のように述べています、
キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられた…
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会をご自分の前に立たせるためです。 (エペソ 5:25–27)
現在の教会と未来の教会とでは、大きな違いがあります。今現在の教会を見れば、どこの教会も神が求めておられる教会の姿からは程遠いことが分かるでしょう。しみや、しわがたくさんあります。花嫁は、まだ華麗に着飾ってはいません。
しかし、キリストは、しみがあっても、しわがあっても、教会を愛しておられます。そして、私たちがキリストの似姿へと変えられていくなら、私たちもキリストの教会を愛するようになるでしょう。イエスは教会のためにご自身を献げられました。そして、もし私たちがイエスのようになるなら、私たちも教会を愛し、教会のために自分自身を献げるようになります。
イエスが今、ご自分の教会のためにしてくださっていることに注目してください。イエスは、教会をみことばで洗い、清めておられます。神の御言葉は、私たちが洗われるためのお風呂のようなものです。これが、私たちが共に歩む人生のパターンです。私たちは御言葉によって洗われ、徐々に、そしてますます、私たちのうちにイエスの美しさが見えてくるようになるのです。
さらに、キリストが教会に何をしてくださるかが語られています。キリストは、「しみや、しわや、そのようなものが何一つない、 聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会をご自分の前に立たせる」(5:27)のです。
シンデレラの話を思い出してみてください。彼女は醜いお姉さんたちから軽蔑されていましたが、王子と結婚する運命にあります。
教会はこの世から軽蔑されていますが、キリストの花嫁であり、その未来は輝かしいものです。
イエス・キリストは栄光の教会をご自分の前に立たせてくださいます!そしてその日、あなたは自分が主の教会に属していることをこのうえなく嬉しく思うことでしょう。
- 聖霊
- 信仰
- 赦し
- 教会
- 天国
すべての信徒が完全な者とされる日について語ることは、神が最後に用意しておられる最高の贈り物について語ることに繋がります。
イエスは御父にこう言われました、
わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。 (ヨハネ 17:24)
神がくださる最高の贈物は、ご自身です。そして、いつの日か、神の民は皆、天の神の臨在の中へと迎え入れられます。
5. 天国という賜物
聖書の物語は、神が新しい天と地を創造されるところで終わります。ヨハネの黙示録の中で、ヨハネはこう語っています、
また私は、新しい天と新しい地を見た。
以前の天と以前の地は過ぎ去り… (黙示録 21:1)
新しい天と新しい地の喜びは、私たちの想像をはるかに超えています。しかし、神は、私たちに理解できるように、二つの描写を用いて、神の民がこれから向かう場所について示してくださっています。その二つとは、「都(みやこ)」と「園(その)」です。
神は民と共に住まわれる
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが
夫のために飾られた花嫁のように整えられて、
神のみもとから、天から降って来るのを見た。 (黙示録 21:2)
物語のこの時点で、私たちが知る歴史は幕を閉じます。地球は、神の審判の燃えつくす熱によって崩れ去りました(2 ペテロ 3:10)。
ロンドン、シカゴ、北京、モスクワ、デリー、そしてドバイも、すべてなくなります!ヨハネは新しい都市が、天から降りてくるのを見ています。そして、すぐにその街並みに気付きます。エルサレムです!それは彼にとって紛れもなく馴染み深いものでした。
エルサレムは、聖書の物語において、非常に重要です。それは、神がご自分の民と会うために至聖所に下ってこられた場所です。。古いエルサレムには、神の臨在が下りてこられる聖なる場所がありました。新しいエルサレムは神の臨在がいつもある聖なる場所です。
ヨハネは、御座から大きな声がして、こう言うのを聞きました、
「 見よ、神の幕屋が人々とともにある。
神は人々とともに住み、人々は神の民となる。
神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
以前のものが過ぎ去ったからである。」 (黙示録 21:3−4)
ヨハネは外から都を見ていましたが、幻の中で都の中に招かれたとき、彼が見たものは美しい園でした。
回復される楽園
御使いはまた、水晶のように輝く、
いのちの水の川を私に見せた。
川は神と子羊の御座から出て、
都の大通りの中央を流れていた。
こちら側にも、あちら側にも…いのちの木があって… (黙示録 22:1−2)
聖書の物語は園から始まりました。園には木がありました。そのうちの一本はいのちの木でした。ヨハネはことの重要性にすぐに気付いたでしょう – 回復されるはずの楽園だ!新しい楽園は、アダムが失ったものをはるかにしのぎます。
最初のセッションで、神がアダムとエバに家庭、仕事、結婚、そして神の臨在という賜物を与えてくださったことを見ました。
天国ではさらに良い住まいが与えられます
御使いはまた…いのちの水の川を私に見せた…
こちら側にも、あちら側にも、
十二の実をならせるいのちの木があって、
毎月一つの実を結んでいた。 (黙示録 22:1、2)
エデンの園は、アダムとエバにとって素晴らしい住まいでした。しかし、エデンの園には、毎月異なる実を結ぶ木はありませんでした。
つまり、天国での暮らしは決して退屈ではないのです。いつも何か新しいことが生じます。ヨハネは別の表現を使って、主が私たちの牧者となると語っています。主は、私たちをいのちの水の泉に導かれるのです(黙示録 7:17)。
イエスはいつも私たちを新鮮な発見へと導いてくださいます。この世での最大の喜びは、神の新しい創造の中で味わう喜びのほんのサンプルに過ぎません。
天国ではさらに良い仕事が与えられます
神と子羊の御座が都の中にあり、
神のしもべたちは神に仕え…
神である主が彼らを照らされるので…
彼らは世々限りなく王として治める。 (黙示録 22:3、5)
私たちが天国で何をするのかに注目してください。私たちは礼拝(英訳:his servants will worship him)し、仕え、そして治めるのです。私たちが治めると神が語っておられるのは、生活に秩序があり、私たちが管理できるようになることを告げてくださっているのです。
もう時間の流れの支配を受けることはありません。もう、予測不可能な感情の浮き沈みや、意志の衝動に振り回されることもありません。もう、機能不全に陥った人間関係に耐える必要もありません。そして、もはや危険や死にさらされることもありません。
あなたの人生には秩序があり、あなたは仕事に充足し、人間関係は完全なものになります。あなたは神のすべての目的を果たすための自由を得、あなたのすることはすべて、神への礼拝として献げられるのです。
天国ではさらに良い友が与えられます
エデンの園は、たった一人の男と一人の女しかいませんでしたが、神の都の門からは数えきれない数の人々が流れ込んできています。
ヨハネは都にあるものを見ました:
都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。
門の上には十二人の御使いがいた。
また、 名前が刻まれていたが、
それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。
東に三つの門、北に三つの門、
南に三つの門、西に三つの門があった。 (黙示録 21:12−13)
ヨハネは新しいエルサレムの入り口となる十二の門を見ました。門は東西南北を向いました。東は中国、北はロシア、南はアフリカ、西はアメリカ、人々は、あらゆる方向から都にやって来ます。
ヨハネはそれぞれの門に御使いが立っているのを見ました。すべての門が開かれていました(黙示録 21:25)。聖書の物語の初めでは、楽園への門はが閉ざされました。ケルビムは炎の剣と共にでいのちの木への入り口を守っていました。神の臨在のもとに戻る道は閉ざされていました。
しかし、イエスが裁きの剣を砕き、今では御使いたちが門にいて、主に属するすべての人を歓迎しています。世界中のあらゆる大陸から、あらゆる民族や国家に属する膨大な数の人々が押し寄せています。彼らは皆、イエス・キリストによって贖われた者です。
天国では主をさらによく知ることができます
ヨハネは言います、
御顔を仰ぎ見る… (黙示録 22:4)
この都の最大の祝福は、神の臨在があることです。エデンの園では、神は訪問者として降りてこられ、ご自身を知らせてくださいました。しかし、この新しく創造された世界では、神はもはや訪問者ではありません。神は私たちと共に住まわれ、私たちはその御顔を仰ぐのです。
神の臨在の中で永遠を楽しむことは、神からの究極の賜物です。しかも、この賜物を神はあなたに差し出しておられるのです。「わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる」(黙示録 21:6)。
天国は、あなたがいただける報酬ではなく、あなたが受け取らねばならない賜物です。そして、イエス・キリストはこの賜物を、彼を信頼するすべての人に与えてくださるのです。
聖書は素晴らしい招きの言葉で終わっています
御霊と花嫁が言う。「来てください。」
これを聞く者も「来てください」と言いなさい。
渇く者は来なさい。
いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。 (黙示録 22:17)
御霊と花嫁が、あなたを招いています。花嫁は教会です。今、私は教会を代表してあなたに語らせていただきます:「主イエス・キリストのもとに来て、イエス・キリストを信じてください」。
そして御霊、つまり聖霊である神が「来てください」と言っておられます。神が新しく創造された世界をあなたに楽しんで欲しいと、神は望んでおられます。そのためにイエスがこの世に来られたのです。イエスはあなたのために十字架にかかられました。そして、あなたのために死からよみがえられました。あなたに永遠のいのちを差し出しておられます。
しかし、あなたが来る必要があります。信じなければなりません。イエスが差し出しているものを受け取らねばなりません。
そうすれば、聖書の最後の言葉にあるこの希望を持つことができます。
これらのことを証しする方が言われます、
「しかり、わたしはすぐに来る。」
アーメン。主イエスよ、来てください。
主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。 (黙示録 22:20−21)
- 神がこれらの五つの賜物を私たちに与えたいと思われていることは、神についてどんなことを私たちに教えていますか?
- これらの五つの賜物の中で、あなたには与えられていないと思うものはありますか?それはなぜですか?
- これらの五つの賜物のうち、あなたに最も大きな喜びをもたらすのはどれですか?それはなぜですか?