権力のある地位を与えられたとき、人は多くの場合他の人に与えられている規則が自分には適用されないと考えるようになってしまいます。ダビデがまさにそうでした。ある日、ダビデはバテシェバという名の既婚女性を目にしました。ダビデは自分の欲しいものを手に入れる力を持っていたので、神の律法を無視して、その女性を自分のものにしました。
ダビデは主を愛していましたが、神を愛する心でさえ、奇妙な感情を隠し持っていることがあります。ダビデのバテシェバに対する感情は神にとって非常に不快なものでしたが、その強力さのあまり、ダビデはその感情に身を任せてしまいました。
バテシェバが妊娠していることにダビデが気づいたとき、慌ててその事実を隠そうとしました。ダビデは、戦場からの報告を持ち帰るためだと装って、バテシェバの夫であるウリヤを戦場から帰宅させるよう命令を出しました。ウリヤが数日でも妻と過ごせば、子供の父親はウリヤだとされるでしょう。
しかし、その計画はうまくいきませんでした。ウリヤは良心の強い兵士であり、他の兵士が戦場で命を危険にさらしているときに、自分だけが妻と時間を過ごすことなどできないと感じたのです。ダビデはやむを得ず、より極端な手段を取ることにしました。ダビデは、ウリヤが確実に戦死するように、彼を最前線に立たせるよう命じました(2 サムエル 11:5−17)。
間もなく、ダビデは未亡人になったばかりのバテシェバを妻にしました。全ての出来事は、誰にも気づかれないまま遂行されました。完璧な隠蔽工作でした。一つだけを除いて:「ダビデが行ったことは主のみこころを損なった」(11:27)。神はダビデの行いを見、沈黙したままではいられませんでした。
神の言葉を語る
預言者のナタンが宮殿に到着するまで、ダビデは自分の不祥事を完璧に隠蔽できたと思っていました。ナタンは、賢いたとえ話を使って、貧しい人の子羊を盗んだ金持ちについてダビデに話しました。ダビデはその話を聞きながら、金持ちのしたことに怒りを覚えました。ダビデは正義の裁きを下すために、その男が誰であるかを尋ねました。
ダビデが最も怒りを感じたのは、自分の罪が映し出された部分であることに注目してください。金持ちの男は、他の人のものであり、しかもその人が最も愛していたものを奪いました。ダビデのしたことも同じでした。そして、自分の罪を他人の中に見たとき、彼はそれを憎み、それを非難しました。
誰かの罪に対して怒りが湧いた時に、次のようにしてみてください:それを個人と切り離して客観視し、それが何であるかを書き出してください。これは貪欲です。これは高慢です。これは情欲です。これは欺瞞です。これは偶像崇拝です。それから、あなたの人生のどこかに同じ罪があるかを示してくださいと神に祈ってください。あなたが他の人に対して最も怒りを感じる事が、あなた自身の心の中に潜んでいるかもしれません。
「あなたがその男です!」(12:7)とナタンが言った時、ダビデの心に潜む罪に対して、神はダビデの目を開かれました。ダビデの防御は見事に崩されました。しかし、これは神の恵みの働きです。ダビデは暗闇に足を踏み入れていましたが、神はダビデを連れ戻すために預言者を送られたのです。
何世紀にもわたって、神は預言者を通して御言葉を語られました。しかし、時が満ちて、神は御子を送られました(ヘブル 1:1–2を参照)。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ 1:14)。
預言者は神のことばを聞きましたが、キリストは神のことばそのものです。キリストが語られる言葉は、御父がキリストに授けたものです:「わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです… ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです」(ヨハネ 12:49−50)。
しかし、イエスは預言者以上の存在です。イエスは他の預言者が絶対に口にできないことを言いました:「わたしと父とは一つです」、そして「わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハネ 10:30;14:9)。
神があなたに言わなければならないことはすべて、イエス・キリストにおいて表されています。そのため、今では、私たちに預言者は必要ありません。神は、過去には預言者を通して語られましたが、彼らは皆、神の言葉であるキリストを指し示していたのです。
預言者の立場に立つ
預言者として神の御言葉を受け取るとは、どういうことだったのでしょうか?使徒ペテロはこのことについて新約聖書の中で語っています:「聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。預言は決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです」(2 ペテロ 1:20−21)。
ペトロがここで言っていることを理解するための最善の方法は使徒の働きに記された話を通してです。パウロは逮捕され、囚人として船でローマに連れて行かれるところでした。ルカはこのときのことを、次のように記録しています:「ところが、間もなく、ユーラクロンという暴風が陸から吹き降ろしてきた。船はそれに巻き込まれて、風に逆らって進むことができず、私たちは流されるままとなった」(使徒 27:14−15)。
ルカが「流されるまま」に使った言葉と同じ言葉を、ペテロは、預言者が聖霊に「動かされた」ことを表すために使っています。嵐の中で流されている船にいるとき、あなたにはどれほど船をコントロールする力がありますか?ほとんどありませんね。船の進む方向は風によって決められます。預言者の語る言葉も同じように、聖霊によって決められていたのです。
預言者の言葉は神から来ました。彼らは「神から受けて語った」(2 ペテロ 1:21)のです。彼らはメッセージをコントロールしていませんでした;メッセージが彼らをコントロールしていたのです。神のことばは強烈な風のように彼らに届き、彼らが書き記したことは神が彼らに語らせようとした通りになるよう、彼らはその風の吹くままに導かれたのです。
神が誰であるかをどのようにして知ることができるでしょう?何が真実であるかをどう判断したらよいのでしょう?神が語られるから、それらができるのです。預言者たちは、神の御前に立ち、神の声を聞き、その言葉を人々に伝えるというユニークな特権を与えられていました。もし神がご自身について何も明らかにされなかったとしたら、私たちは人類の経験を合わせたものに頼ることしかできません。しかも、その経験の大半はひどく悲痛なものばかりです。意見で構成されたこの世の中で、神は私たちに啓示を与えてくださいました。
このようにして、預言者たちは、他の方法では決して知ることがなかったことについて語ることができたのです。イザヤは、身ごもって男の子を生む処女について語りました(イザヤ 7:14)。ゼカリヤはロバに乗ってエルサレムに入場する王について語りました(ゼカリヤ 9:9)。預言者がこれらのことを知ることができたのは、神が彼らに語られた他ありません。
ナタンはダビデの不貞のことをどうして知ることができたのでしょうか?神がナタンに語ったのです!神がナタンに話し、ダビデの隠蔽工作を崩したのです。
神の言葉に応答する
神がナタンを通してダビデに事実を突きつけたとき、ダビデ王は次のように言いました:「わたしは主の前に罪ある者です」(2 サムエル 12:13)。ダビデは、次のように言うこともできました:「ナタン、あなたは何も分かっていない。私の結婚生活は何年も前から終わっていたのだ。」それは本当のことだったかもしれません。 あるいは、次のように言うこともできたでしょう:「ナタン、確かに私は間違ったことをした。しかし、他の指導者たちも同じことをしているし、更に酷いことをしている人だっている。」これも確かに本当のことです。しかし、ダビデは言い訳をしませんでした。彼は言いました、「わたしは主の前に罪ある者です」。あなたも同じように言いましたか?罪が明らかになった時に、あなたが神の言葉にどう応答するかで、あなたの本性が明らかになります。
ダビデは正直に罪を告白することが、神の赦しに繋がることを知っていました。重苦しかった良心の呵責から解放され、救いの喜びを取り戻すことができました。
千年後、神は預言者を通して、ヘロデという別の王に直接語られました。その預言者の名はバプテスマのヨハネでした。ヘロデは霊的な事柄に非常に興味があり、ヨハネの説教を聞くのが好きでした。
ある日、神はヘロデに語る言葉をヨハネに授けました。それは、ヘロデが兄弟の妻と不倫関係にあることについてでした。ヘロデ王はそのことについて聞きたくなかったので、結果、バプテスマのヨハネの首を皿に乗せて持ってくるよう命じました。
このような残虐行為に至ったヘロデですが、イエスに会うことに興味を持っていました。そしてその機会を得たとき、彼は多くの質問をイエスに投げかけましたが、イエスは答えることを拒否されました(ルカ 23:9)。ヘロデはバプテスマのヨハネを通して語られた神の言葉を拒絶しました。彼は心をかたくなにしていました。なので、救い主はもはや彼に何も言うことがなかったのです。
私たちが知る限り、神が次にヘロデに語ったときには、預言者も救い主もいませんでした。次にヘロデが神の言葉を聞いたのは、神の御前に着いたときです。
ダビデはヘロデよりも良い選択をしました。たとえそれが彼の実態をさらすことになっても、ダビデは神のことばを聞き入れ、そして信仰と悔い改めによって応答しました。そのことによって、神は御言葉を通して、ダビデを再び神との良い関係に戻されたのです。
開かれました
もし、神に直接語ってほしいと願ったことがあるなら、神はそうされているということを覚えてください。神は御言葉と御霊によって語られます。御言葉が開かれるとき、御声は聞こえます。
あなたが聖書を学び、そこで語られている言葉を聞くとき、受け取り難いこともあることに気付くでしょう。あなたの罪について本当のことを聞くのは、不快なことです。しかし、神が語られているということは、神の恵みのしるしでもあります。神の目的は常に回復させ、祝福することです。あなたが聖書を開く時、神の言葉を読んでいるのであり、神の語ることは全て信頼することができます。