ホーム画面に保存
Open the Bible can be just a tap away! Tap the icon at the bottom of your browser and choose "Add to Home Screen"
閉じる

ログイン

「聖書を開く」にログインしてください。

登録する

Save your progress by creating a FREE account! Get started by filling out the info below:

アカウントの回復

新しいパスワードをリクエストする。

以下にメールアドレスを入力すると、仮のパスワードがメールで送信されます。パスワードの変更は、次回ログイン時に行うことができます。

お問い合わせ

ご意見、ご質問等ございましたら、お気軽にお問い合わせください。

ヘブル人への手紙2章5−18節

救いの創始者

2章5というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。6ある箇所で、ある人がこう証ししています。「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みてくださるとは。

7あなたは、人を御使いよりわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、8万物を彼の足の下に置かれました。」

神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。

9ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

10多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。11聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。

12「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しよう。」

13また、「わたしはこの方に信頼を置く」と言い、さらに、「見よ。わたしと、神がわたしに下さった子たち」と言われます。

14そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、15死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。16当然ながら、イエスは御使いたちを助け出すのではなく、アブラハムの子孫を助け出してくださるのです。17したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。18イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。

新改訳聖書

次へ

私たちは、クリスチャン人生の最後の谷にたどり着きました。神の永遠の栄光という偉大なる山頂が待ち受けていますが、そこへと続く道は死の影の谷を通っています。いつの日か、あなたはこの谷を歩くことになりますが、その時には、キリストがあなたと共にいてくださいます。

イエスが死なれたとき、イエスはすべての信者に対して、死の性質を変えてくださいました。私たちは今でもこの谷を歩かなければなりませんが、イエスに属する者に対して、死は何の効力もありません。

ヘブル書は、イエスが死なれた時に何が起こったのか、そしてその結果、あなたの死がどのように変わったのかを説明しています。「その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです」(ヘブル 2:9)。

イエスは死に直面する準備をしている時、魂に大きな苦悩を感じておられました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とゲッセマネの園で言われました(マタイ 26:38)。死ぬほどです!

イエスを死ぬほどの悲しみに陥れたものは他に何もありませんでした。イエスはご自分の死を予期して、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました(マタイ 26:39)。これから経験することについて考えることに、イエスは強い動揺を感じていたのです。その杯の中に何が入っていたのかを知れば、それを飲むことがどれほど恐ろしいことであったかを理解することができます。

二重の死

聖書は死について二つの次元で語っています。第一の死は、肉体的な死で、私たちもこのことはよく知っています。しかし、「第二の死」があるのです(黙示録 2:11;20:6、 14;21:8)。これは、最後の日に注がれる神の裁きです。

イエスは第一の死と第二の死を同時に経験されました。邪悪な人たちがイエスを十字架に釘付けにして、イエスの体から命が奪われていきました。同時に、神は私たちの罪をイエスに負わせ、私たちに課せられた裁きをイエスに注がれました。ですから、「その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです」(ヘブル 2:9)と記されているのは、イエスが死の両方の次元を一緒に味わったということを意味しています。

私たちの救い主は、それ以前もそれ以降も、誰も直面したことがないような死に直面されました。救い主は同時に二つの次元の死を経験されたのです。その二重の死に直面することが、イエスにとって考えるだけでも恐ろしいことだったとしたなら、実際の経験はどのようなものだったのでしょうか?

クリスチャンは第二の死を味わうことはありません。キリストが私たちのためにその死に耐え、その刺を抜いてくださったからです(1 コリント 15:55)。死はそれでも暗い谷間ですが、全ての信者にとってその性質は変えられました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません」(ヨハネ 8:51)とイエスが言われたのは、このことを意味しています。クリスチャンは、棘を味わうことなく死に直面します。あなたの死は、御父から引き離されることではなく、御父の臨在のもとへ迎えられることを意味します。

恐れることはありません

多くの人が穏やかに死を迎える一方で、大変な闘いに耐えながら死んでいく人もいます。自分の永遠の運命を確信している人にとっても、死の予感は恐ろしいものです。ですから、現世から旅立つ瞬間が来たときに何が起こるのかを考えることは有益です。

福音書には、湖の上の船に乗っていた弟子たちのところにイエスがやって来られた時のことが記録されています。夜遅く、イエスは水の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。弟子たちはイエスを見て、幽霊かと思い、おびえました。しかし、イエスは彼らに言われました、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」(マルコ  6:50)。

この情景は、死の瞬間に信者に何が起こるのかをよく描いています。穏やかに死を迎え、天国が開かれることを強くイメージしているクリスチャンもいますが、一方で、弟子たちのように、大きな恐怖を感じながらもがいて死ぬ人もいます。いずれにしても、イエスがやって来て、イエスが用意してくださった家へと連れて行ってくださるのです。

到着の瞬間

聖書には、信者にとって死がどのようなものであるかについて、また別の素晴らしい描写があります。谷のこちら側から見ると、キリストが私たちを彼の家に連れて行ってくださるのですが、天から見ると、それは到着の瞬間です。

天国に到着すると、イエスがあなたのそばに立って、御父に紹介してくださいます(ヘブル 2:13)。あなたが人の前でイエスを認めるならば、天の御父の前であなたを認めると、イエスは約束してくださいました(マタイ 10:32)。キリストは喜んで神の民すべてとご自身を同一視してくださり、御父の前で、「見よ。わたしと、神がわたしにくださった子たち」(ヘブル 2:13)と言われます。

その日に意味を持つのは、キリストの言葉だけです。キリストは御父の前であなたを認め、永遠のいのちの喜びへと導いてくださいます。キリストがこう約束してくださったのですから、何を恐れる必要があるでしょうか?

第四の谷からの眺め

キリストを信じる信者にとって、死とは直ちに意識がある状態でイエスのもとへと向かう通路です。キリストが私たちのために第二の死に耐え抜いてくださったので、私たちはこの賜物を受け取ることができるのです。キリストは死の棘を抜いてくださり、神の民すべてにとって死の性質を変えてくださいました。

死を経験することは恐ろしいことかもしれませんが、キリストは死を通してあなたと共に歩み、用意してくださった家へとあなたを連れて行ってくださいます。クリスチャンは確信を持ってこう言うことができます、「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたが、ともにおられますから。 あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」(詩篇 23:4)。

谷の向こう側には、私たちの旅の目的地である偉大な山頂があります。その栄光は私たちが見ることも理解することもできないほどのものです。しかし、神はその先に何があるのかを垣間見ることができるようにしてくださいました。それでは、その究極の光景に目を向けましょう。

次へ
これらの質問を使って、神の御言葉にさらに触れてみてください。他の人と話し合ったり、自分自身を探るための質問として使ってください。
  1. これまでの数セッションを学ぶことで、クリスチャン人生に対する期待はどのように変えられましたか?
Save Progress
トップに戻る