大金持ちがいたとしましょう。彼の名前はスタブロスです。長年にわたって、何十億ドルもの財をなしてきました。
スタブロスが亡くなったとき、弁護士が遺言書を開きました。何百ページにも及ぶ長大な文書で、受取人は世界中にいます。それぞれを見つけて、遺産について伝える必要がありました。さらに、遺言書の条件によると、約束されているものを受け取るためには、各人をスタブロスの家につれてくる必要がありました。これから何年間も、弁護士は大変な仕事を抱えることになりそうです。
キリストが私たちのために驚くほどの遺産を買い取ってくださったと、聖書は私たちに告げています。その死と復活を通して、キリストは罪人たちが神と和解して、永遠の命へと至る道を開いてくださいました。神の遺言書は父が署名をして、御子が封印しました。しかし、署名され、封印されたものを届ける必要があります。
贈り物が提供されることと、その贈り物を受け取ることは別のことです。キリストがしてくださったことも、その提供してくださっているものを私たちが受け取らなければ、私たちには無用で、価値のないものとなってしまいます。
では、神の遺言書は、どのようにして私たちのところに届けられるのでしょうか?答えは、聖霊によってです。イエスが十字架で成し遂げてくださったことを、聖霊が届けてくださり、私たちに個人的に適用してくださるのです。
聖霊がなければ、救いは理論的な可能性にとどまり、誰にとっても決して現実のものとはなりません。もし、聖霊がいなければ、誰も天国に到着することができないのです。聖霊が存在しないなら、イエスが成し遂げてくださったすべては、一度も読まれなかった遺言書、一度も開けられなかった贈り物、全く享受されなかった遺産となってしまいます。
安心を揺さぶる神
キリストは罪の赦し、上からの義、そしてやがてくる裁きからの救いを提供しています。しかし、ほとんどの人はキリストが提供しているものが必要だと感じていません。そのため、聖霊の最初の仕事は、私たちの安心を揺さぶることにあります。「その方[聖霊]が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます」(ヨハネ 16:8)。
ペンキの缶を開ける場合を考えてみてください。おそらくドライバーか何かをテコとして使って、ふたを開けようとするでしょう。缶の周囲の端には、テコの支点の役割を果たすへりがあります。へりがなければ、テコを使って引っ張る場所がありません。テコは支点を軸に引っ張る必要があります。
福音はテコのようなものです。支点となる罪の意識を必要とします。その人に罪の意識がなければ、福音は、その人の人生にどんな引っかかりも持ち得ません。ですから、罪の意識がなければ、支点を持たないテコになってしまうのです。
聖霊によって私たちの内に罪の意識が生じて初めて、私たちの人生において福音が効果を発揮します。ですから、聖霊は最初の働きとして私たちに罪の意識を持たせ、私たちを揺さぶるのです。自分の罪を知ることは、神との平和を得る第一歩です。
神の三つの目覚まし時計
聖霊の第一の仕事は、何が間違っているかを私たちに知らせることです。そうすることで、私たちは、自分たちが何を必要としているかを知り、福音に耳を傾ける用意ができます。これは決して快適なことではありません。寝ているときに起こされることが好きな人はいません。しかし、あなたの家がもし火事だったなら、あなたを起こしてくれた人に感謝するでしょう。
聖霊が私たちを揺さぶるのは、私たちに敵対しているからではなく、私たちが置かれている状況を見て、私たちを愛しているからこそ、そのままにしておけないからです。あなたは今いる場所から出なければなりません!自分が置かれている危険性が分からないのですか?罪と義と裁き! 留まっていてはダメです!
妻のカレンと私は、寝室に目覚まし時計を三個置いています。最初の目覚まし時計は、音楽で私たちを優しく起こしてくれます。最初の目覚ましで起きなかった場合に備えて、二番目の目覚ましは、数分遅れて鳴るようになっていて、もっとやかましいものです。三番目は、さらに遅れて鳴るようになっていて、最初の二つがだめだった場合に備えた最後の手段です。それは、すさまじい音を出し、耳をつんざくようなその音の前に起きることができれば、一日を快適に始められるのです。
神は、人の人生において罪を阻止するために三つの方法を用います。それらは、三個の目覚まし時計と考えることができます。まずは、あなたの良心に聖霊が優しく働きかけて、何が間違っているかを明らかにして、それを変えるようにしてくださいます。
それを寝過ごしてしまったなら、聖霊はもっと大きな声で、直接語ることになるでしょう。ダビデの事例がこれに当たります。神は預言者ナタンを通して彼の罪を暴かれました。それが公になり、その時点でダビデは悔い改めて神に立ち返りました。
もし二番目の目覚まし時計を無視するなら、その人の状況は危険になります。それがファラオの事例でした。神は彼のところにモーセを遣わされました。しかし、ファラオは直接、面と向かって忠告を受けたにも関わらず、神の命令に耳を傾けることを拒みました。心をかたくなにし続け、ついにはファラオに神の裁きがくだされました。
これら三個の目覚まし時計について考えてみましょう。良心を開いてくださる聖霊の静かな働き、隠れた罪を神が暴くこと、そして、全能の神による直接の裁きです。あなたはこの三つのうち、どれを使って神に起こしてもらいたいですか?
私たちに罪を示すことが、聖霊の最初の働きですが、ありがたいことに、それで終わりではありません。御霊は私たちの罪に気付かせてくれますが、そこに私たちを置き去りにすることは決してありません。
投光照明を作動する
建物が投光照明で照らされると、建物の美しさを見ることができます。しかし、投光照明がなければ、その美しさは暗闇の中に隠れてしまいます。(注1)聖霊はイエス・キリストを照らし出す投光照明のようなものです。聖霊がなければ見られない真理を照らします。イエスがどのような方で、何を成し遂げられたのかに対して、私たちの理解を開いてくださるのです。
イエスは言われました、「助け主…が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます」(ヨハネ 15:26)。「御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです」(16:14)。投光照明と同じように、聖霊は、自分自身に焦点を当てることはしません。私たちの注意をイエスに向けるのです。
聖霊は美しい働きをされます。私たちに救い主が必要であることを示し、そして、キリストこそ、私たちが必要とする救い主であると教えてくださいます。それから、私たちとキリストを一体にしてくださるのです。聖霊は、天上界の仲人です。私たちをキリストのところに連れて行き、キリストを私たちに結びつけてくださることで、イエスが十字架上で成し遂げてくださったすべてのことが私たちのものとなるのです。
聖霊は位格です
聖霊について語る中で、イエスはこう言われました:「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主[もしくは助言者]をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます」(14:16)。イエスが「あなたがたに助けを送る」と言っていないことに注意してください。「助け主を送る」と言っているのです。三年間、イエスが弟子たちの助言者でしたが、彼らにとってのイエスの役割をすべて、聖霊が引き継いでくださるのです。
聖霊は、御父や御子と全く同様に位格です。ですから、聖霊を単なる力やエネルギーと考えてはいけません。聖書は、聖霊を欺いたり、悲しませたりすることについて語っています(使徒 5:3;エペソ 4:30)。力を欺いたり、エネルギーを悲しませたりすることはできません。弾けるようなエネルギーであっても、弟子たちにとってイエスのあらゆる役割の代わりには決してなり得ません。
イエスは弟子たちに「わたしが父のもとに行く」(ヨハネ 14:12)と言われましたが、「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です」(14:16-17)とも言われました。そしてその後で、さらにイエスはこう言われました:「わたしは…あなたがたのところに戻って来ます」(14:18)。聖霊が弟子たちと共にいてくださるということは、キリストご自身が実際に彼らと共にいてくださるのと同じだということだったのです。
それから、イエスはさらに驚くべきことを告げます:「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」(14:23)。聖霊の臨在があるところが、御父と御子の住まいとなるのです。
御子を抜きに御父を理解することはできませんし、聖霊を抜きに御子を理解することもできません。御子を通して、御父はご自身を現してくださり、私たちをイエスのところに導いてくださるのは、聖霊です。
「うちに」と「ともに」
私たちと聖霊との関係を説明するのに、イエスは二つの言い方をしました:「この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです」(14:17)。聖霊は私たちと共におられます。ここには区別があります。私たちが思い、語ることと、聖霊の思いを混同しないようにしましょう。賢いクリスチャンなら、自分の言葉を他の人に調べてもらうでしょう。聖霊が私たちと共におられ、私たちには聖霊に正してもらわねばならないことがよくあります。
イエスは聖霊が、弟子たちの内におられるとも言われました。ここには一体感があります。聖霊は、私たちにすべきことを伝えて、後は私たちがそれをするように任せる指導者だけの存在ではありません。聖霊は私たちの内に住んでくださっており、その存在のおかげでクリスチャンとして生きることができるのです。
イエスは言われました、「わたしが去っていくことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません」(ヨハネ 16:7)。これは明らかに、三年間イエスと一緒にいた弟子たちに、さらに多くのものが与えられることを意味していました。イエスは彼らと共におられましたが、今度は聖霊によって彼らの内にいてくださるのです。
イエスに従った最初の弟子たちよりも少ないものしか私たちは与えられないと思ってしまうのは自然です。しかし、クリスチャン信仰者は彼ら以上のものを持っているのです。イエスご自身の霊である聖霊が、あなたの「内」に住んでおられます。少ないどころか、多いのです!
開かれました
聖霊である神は、三位一体の三番目の位格です。聖霊は私たちの救いに関して中心的な役割を果たします。御子の十字架での働きがなければ、私たちの救いは不可能ですが、また一方で、私たちの心で働かれる聖霊の働きがなければ、私たちが救われることはありません。
聖霊は、私たちの心を揺さぶり、罪に気付かせて、救い主が必要だと理解できるようにしてくださいます。揺さぶるだけでなく、光で照らして、イエスの栄光を見えるようにしてくださいます。イエス・キリストを信じる信仰を持つようになったなら、聖霊があなたの内に宿ります(1 コリント 6:19;12:13)。ですから、「自分は変われない」とは決して言わないでください。
注:
1. 照明灯のたとえについては、 J. I. Packerを参考にした。Packer, Keep in Step with the Spirit (Old Tappan, N. J.: Revell, 1984), 65ffを参照。