ある日突然、朝のニュースで、アメリカの50州のうち42州が合衆国から離脱し、それぞれが完全に独立した政府と軍隊を持つことになったと告げられたらどう思いますか?それから、もし数年後に独立した42の国家が崩壊し、敵に支配されたとしたらどうでしょうか?
8州だけが残った「合衆国」の一人の市民として、あなたはもはや世界の超大国の一員ではなくなります。代わりに、かなり小さく脆弱な国の市民になってしまいます。かつて強力で安全に思えたものが、弱く脆弱なものへと変わってしまいます。
南のユダ王国を構成した二つの部族の民に同じようなことが起こったのです。ダビデの時代、イスラエルの十二部族は団結していて、権力と軍事力のある主要国の一つでありました。しかし、十二部族のうち十部族が独立を宣言した後、南部の状況は根本的に変わりました。国は軍事的、および経済的に衰退し、二百年もしないうちに北の王国は敵に支配され、十部族は散らされました。
アブラハムの子孫を祝福し、彼らを通して世界の国々に祝福をもたらすという神の約束は、非常に疑わしいものに見えたに違いありません。しかし、神の民を祝福するという神の約束は取り消されてはいませんでした。
更に悪い状況への転落
長年にわたり、ユダの民は北部の兄弟姉妹よりも優れたリーダーシップの恩恵を受けていました。しかし、マナセが王位についたとき、事態は急に悪化しました。マナセは55年間王として君臨し(列王記第二 21:1)、他の誰よりも民に問題をもたらしました: 「マナセは彼らを迷わせて、主がイスラエルの子らの前で根絶やしにされた異邦の民よりも、さらに悪いことを行わせた」(21:9)。
神はカナン人が犯した多くの罪のためにカナン人をその地から追い出しましたが、今や神の民がそれらの罪よりもさらに悪いことを行っていたのです!マナセはモレクの崇拝を促進し、子どもをいけにえとして火の中に入れる邪悪な儀式が行われました(21:6)。神がカナン人の罪を裁かれたなら、どうして自分の民に対する裁きを控えることができるでしょうか(21:11)?神の民は暗闇の中の光になるようにと召されていましたが、実際は周囲の人々と同じ闇の住人として生きていたのです!
マナセの治世が終わると、息子アモンが王位に就きましたが、二年後に殺され、八歳の息子ヨシヤが王となりました。
敬虔なリーダーの影響
父や祖父とは対照的に、ヨシヤは「主の目にかなうことを行い、父祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった」(2 列王 22: 2)。
ヨシヤは、治世の八年目、つまり十六歳のときに主を求め始めました(2 歴代 34:3)。ティーンエイジャーの時に、ヨシヤは神を求める心を培い、そのことが彼の人生全体を形作っていくことになりました。今あなたが追い求めていることが、あなたの今後を形作るのです。主を求めるのに決して早すぎることはありません。
ヨシヤは神の民を正しい道に戻したいと思っていましたが、参考とするべく聖書についての知識がなく、従うべき敬虔な模範も彼の周囲にはいませんでした。ヨシヤは、霊的に混乱し、聖書に対して無知な文化の中で育ちました。しかし、それでも心の奥底から、神を知りたいと切望したのです。
ここで明らかな疑問があります:もし神を求めているなら、どのようにして見つけることができるでしょう?次のように考えるかもしれません:「私は変わりたい。家族代々受け継がれてきたことを続けたくはない。私は変わりたい。そして、そのためには神の助けが必要なのは分かっている。しかし、どうやったら神を見つけることができるのだろう?」
聖書の再発見
ヨシヤは、神が神殿で礼拝されるべきだと知っていたので、神殿を修理することに決めました(2 列王 22:3−5)。その作業中に、大祭司ヒルキヤは、ほこりだらけの古い本を見つけました。この本が国の進む方向を変えることになるのです。彼は言いました、「主の宮で律法の書を見つけました」(22:8)。この本はほぼ間違いなく申命記の写本であり、よりによって、どうして神殿でそれが見つからなくなってしまっていたのか、不思議です。
神の言葉はマナセがしたことを辛辣に非難していたので、祭司が聖書を無視したのも無理ありません。マナセの時代に聖書から教えていたなら、当時の文化との衝突は避けられなかったでしょう。それで彼らは聖書を埋めてしまったのです。そして五十年後、神や神の律法を知らない新しい世代が誕生したのです。
驚くべきことは、祭司が聖書を一度も使わずに神殿で働き続けていたということです!同じような経験をしたことがあるでしょうか。神を探し求めて教会に行ったにも関わらず、聖書がほとんど開かれなかったという経験もあるかもしれません。たとえ読まれたとしても、それが説明されることはなく、魂が非常に飢えたままの状態にされるような経験もあるかもしれません。
善悪の再発見
申命記がヨシヤの前で読まれ、「王は律法の書の言葉を聞いたとき、自分の衣を引き裂いた」(2 列王 22:11)とあります。
初めて神の御言葉を読んだときに、まず服を破りたいような衝動に駆られたとしても、驚かないでください。神があなたに求めておられる生き方を知ったとき、自分がそれからどれほど逸れてしまっているか、また、神からどれほど離れているかを知ることになるでしょう。「なぜこのことを今まで知らなかったのだろう?私の人生には、神が求めておられることと一致するものは何一つない!」と思うようになるでしょう。
ヨシヤは長老と民を集めて、申命記を声に出して読みました。神殿の柱のそばに立って、彼は主に従うことを公に誓いました。その後、民の全員が同じ誓いをしました(23:2−3)。
御言葉はヨシヤの人生に火をつけ、神が言われたことを実践しようと決意しました。このビジョンは彼の心と魂を捉えました:神の恵みによって、私は敬虔に生きる。
ヨシヤは国中を旅し、祭壇やその他の偶像崇拝のしるしを見つけると、それらを完全に破壊しました。それはイスラエルの歴史の中で偶像崇拝の慣行に対する最大の猛攻撃でした。それ以前にこのようなことが行われたことはありませんでした。
ソロモンが外国人の妻のために建てた偶像崇拝の祭壇や、ヤロブアムによって建てられた金の子牛像は三百年もそこに立ち続けていたのです(23:13、15)。他の王はそれらに手を出そうとしませんでしたが、ヨシヤはそれらを完全に破壊しました。
神はヨシヤが生きている間、国に対する裁きを差し控えられました:「あなたは心を痛めて主の前にへりくだ[ったので]… あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらす、すべてのわざわいを見ることはない」(22:19−20)。
ヨシヤは徹底的に義を追求しました:「ヨシヤのようにモーセのすべての律法にしたがって、心のすべて、たましいのすべて、力のすべてをもって主に立ち返った王は、彼より前にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、一人も起こらなかった」(23:25)。これほど素晴らしい墓碑銘はありません!
義は心から始まります
しかし、ヨシヤの業績には限界がありました。変更のほとんどは、ヨシヤ自身の行動の直接的な結果として生じました。それは草の根運動ではありませんでした。すべては国の介入によって行われたのです。
その行動全体に強制の要素が強くありました。ですから、ヨシヤが生きている限り、「彼らはその父祖の神、主に従う道から外れなかった」(2 歴代 34:33)というのは驚くべきことではありません。しかし、ヨシヤが死ぬとすぐに、物事は以前の状態に戻りました。
預言者エレミヤは、ヨシヤの改革の限界について興味をそそる洞察を残しています:「ユダは、心のすべてをもってわたしに立ち返らず、ただ偽ってそうしただけだった ー 主のことば」(エレ 3:10)。あなたもそうですか?親との間では一つのことを、友達との間ではもう一つのことを装っていませんか?職場では一つのことをして、家では別のことをして、教会ではまた別のことをしていませんか?もし周囲の期待に従っているだけなら、違う人たちと一緒にいるとき、あなたは別人になり、最終的には自分が何者なのか分からなくなってしまいます。
良い振る舞いであっても、周囲の環境を反映しただけにすぎない場合があります。真の義は、神によって変えられた心から生じます。そのため、神は新しい契約を約束されました:「わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す」(エレ 31:33)。
神は、親、教会、国家ができないことを約束してくだいました:神の律法を私たちの心と魂に入れて、神が命じられたことを私たち自身が求めるようにしてくださったのです。
数世紀後、イエスはワインの入った杯を取り、こう言いました:「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」(ルカ 22:20)。イエスは、神がエレミヤを通して約束された契約、つまり内側から私たちを変えてくだるという神の約束について言っていたのです。
信仰と悔い改めによってイエスのもとに来るとき、イエスはあなたに義を望む心を与えてくださいます。それが新しい契約の約束です。神は私たちに律法以上のものを与えてくださいます。神は神ご自身を与えてくださったのです!御霊があなたの中に新しい望みと力を生み出します。あなたは神を愛し、義を切望するようになります。祈りたくなり、そして罪を犯す度、キリストのもとに来て、赦してもらわねばならない気持ちが起こるようになります。
この義への飢えと渇望は、クリスチャンの歩みにおける最大の祝福の一つです。神が禁じているものに対して飢えている人は、最終的にはむなしさと欲求不満を経験しますが、義を望む人は満ち足ります(マタイ 5:6)。キリストはあなたに新しい心を与えることができるのですから、クリスチャンの価値観を表面的になぞるだけのような生き方をしてはいけません。
開かれました
義は御言葉の中に明らかにされており、御言葉がなければ、私たちは善悪を見分けることができません。私たちの家庭、教会、国において義を回復したいのであれば、神を愛する者が聖書を実践することに真剣にならなければなりません。
義は心の中から湧き出てこなければなりません。もちろん、良い法律は悪い法律よりも優れていますし、悪を抑えるという点では大きな価値があります。しかし、法では心の変化をもたらすことができず、宗教を押し付けようとする試みは常に失敗するのです。
神の目的は、外面的に律法に従うことを押し付けることではありません。義を求める内なる欲求を養うことです。これが新しい契約の約束であり、御霊の働きです。それは、私たちの心を変え、義を求める飢えを植え付け、神に喜ばれる生き方を追求する能力を新たに与えるのです。